早河シリーズ第二幕【金平糖】
 彼女は縛られた両手で佐伯を思い切り突き飛ばす。バランスを崩した佐伯の手からナイフが落ちた。

『待て! 有紗!』

 一階席の扉に向けて逃げる有紗をナイフを拾った佐伯が追いかける。座席の間の段差につまずいて倒れた有紗の身体に佐伯が馬乗りになった。

有紗は抵抗の末に、佐伯が握り締めていた金平糖の袋を払い落とした。袋が裂けて星屑のような金平糖が頭上からパラパラと降ってくる。

「やだ! やめて……!」
『大人しくしていれば痛いことはしない。大丈夫だよぉ、優しくするからね…有紗《みはる》』

 耳元で気持ち悪く囁かれた名前は有紗の名前ではない。今の佐伯は有紗と美晴を混同している。

ジタバタと足を動かしても佐伯が体重をかけてきて抵抗できなくなる。有紗を組み敷いた佐伯は唾液を含んだ舌を動かして有紗の耳たぶや首筋、顔を舐め回した。

佐伯の生暖かい息が顔にかかり、頬や鼻を舐められた時に付着した佐伯の唾液の臭いに噎《む》せそうになる。

 頭上に挙げさせられた有紗の両手に小さく固い物が触れた。先ほど床に散らばった金平糖だ。
有紗は不自由な両手で無我夢中で金平糖を掴む。金平糖は御守り……これがあれば絶対大丈夫。

(お母さん……お父さん……)

「……早河さんっ!」

 ありったけの声を振り絞って早河の名前を叫ぶ。刹那、ホールの扉が開かれた。

『有紗っ……!』

 早河の声が聞こえた気がして有紗は固く閉じていた目を開けた。視界の片隅に早河の姿が映る。

彼女は両手で鷲掴みにした金平糖を佐伯の顔めがけて投げつけた。金平糖の雨粒が佐伯の顔に打ち付ける。

『佐伯! 有紗を離せ!』

 金平糖が顔に当たって佐伯が怯んだ隙に、有紗に馬乗りになる佐伯の腰に早河が掴みかかる。
彼を有紗から引き離した早河は、ナイフの刃先を避けて佐伯を蹴りばした。

ナイフが落ち、佐伯の身体が一階席の座席と座席の間の階段を転がり落ちた。

 その間に両手を拘束する紐を矢野にほどいてもらった有紗は、早河と佐伯の格闘を茫然と見つめる。
早河に顔を殴られて佐伯の鼻や口からは血が垂れていた。

『まだ……終わりじゃない』

 息を切らして上体を起こした佐伯はレンズが割れた眼鏡を外して床に放り投げる。
コートの袖で鼻と口から出た血を拭い、その手をコートの左ポケットに入れた。
< 95 / 113 >

この作品をシェア

pagetop