姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです

10. 公爵邸の親切なメイド

 私は慌てて目の前の女性にお礼を言う。

「あ、ありがとうございます……っ。ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい」

 栗色の髪の女性はクスリと笑って首を左右に振り、ベッドのそばの小さなテーブルに盥を置くと、その中に入っていたタオルを絞りはじめた。

「いいえ。私は何もしていないわ。ただ旦那様とカーティスさんが、意識のないあなたを連れて帰ってきたから、お医者様を呼んだだけ。お二人とも心配していたわよ。あとでご挨拶に行きましょうね。旦那様も、あなたの話を聞きたがっていらっしゃったわ」

 そう言うとその人はふと思い出したような顔をして、私を見て微笑んだ。

「私はアマンダよ。このハリントン公爵邸でメイドをしているの。よろしくね」
「っ! は、はい。私はミシェルと申します」

 ハリントン公爵邸……。どうやら私は意識を失っている間に、ハリントン公爵領内の領主様のお屋敷に運び込まれたらしい。
 名を名乗りながら、続けて「エヴェリー伯爵家の……」と言いそうになり、慌てて口をつぐむ。……そうだ、もう私はエヴェリー伯爵家の義娘じゃないんだ。その名を口にすべきではない。
 アマンダさんは小さく頷いた。

「ミシェルさんね。大変だったわね。一人で森の中を彷徨っていたなんて……。お腹もすいたし、疲れたでしょう。……さ、ひとまずお顔を拭きましょうか。随分汚れているわ。可哀想に」

 そう言うとアマンダさんは、私の頬に絞ったタオルをそっとあて、優しく拭きはじめた。ともかく情報を得ねばと、私は大人しく拭かれながらアマンダさんに質問する。

「あの……、先ほど仰っていた、旦那様とカーティスさん、という方が、私が森で出会ったお二人なのですよね?」
「ええ、そうよ。この屋敷の当主、ロイド・ハリントン公爵と、その付き人兼護衛もしているカーティスさん。……旦那様もひどいお怪我をされてしまっていたから、しばらくは安静が必要ね」

 ……え……。

(あ、あの銀髪の男性は、公爵様だったの……!?)

 アマンダさんの言葉に驚き、頭が真っ白になる。ロイド・ハリントン公爵。このハスティーナ王国の重鎮である筆頭公爵家の当主様。それが、あんなに若くて美しい殿方だったとは。
 そんなお方に、私が怪我を負わせてしまった……。
 自分のしでかした事の重大さにあらためて気が付き、体がズンと重くなる。……どうしよう。とんでもないことをしてしまった。

「旦那様がね、あなたが目覚めたら先に何か食べさせてあげるようにって。何なら食べられそう? パン粥かスープ、果物ぐらいなら大丈夫かしら。長く食事をしていないようだから、急にたくさん食べたら弱った体がびっくりしてしまうかもしれないものね。あ、でもあなたが食べたければ他のものでも……」
「あ、あの!」

 いてもたってもいられず、私は縋る思いでアマンダさんに訴えた。

「食事よりも先に、公爵様に謝罪をさせていただけませんか……? 私の不注意のせいでお怪我をさせてしまったんです。それなのに、私のことを助けてくださって、こんなに親切にしていただいて……。お礼の一言も言わずにお食事をいただくことなどできません」

 必死で言い募る私を見つめていたアマンダさんは、私の言葉が途切れると優しく微笑んだ。

「分かったわ。あなたがそう言うのなら、先に旦那様にご挨拶に行きましょうか。執務室にいらっしゃるはずだから。……だけど……」

 アマンダさんはそう言うと、さっきまで私が横になっていたベッドの上にチラリと視線を送った。それにつられ、起き上がって座っていた私も振り返って枕元を見る。

(……っ!!)

「も……っ、申し訳ございません……っ!」

 私が寝かされていた真っ白なシーツと枕が、汚く煤けて真っ黒に汚れていた。一瞬にして冷や汗が出る。髪の染め粉が、この高価そうな寝具を汚してしまったのだ。
 恥ずかしくて申し訳なくて、私はもう顔が上げられなかった。
 けれどアマンダさんは、そんな私の肩にそっと手を置き、あくまでも優しい口調でこう言ってくれた。

「大丈夫よ。シーツが汚れるくらい、別に大したことじゃないわ。洗えばいいんですもの。そんなに気にしないで。……でも、そうね。せっかく旦那様にご挨拶に行くのなら、この際湯浴みをして全身ピカピカに洗っちゃいましょうか。この客間にも湯浴み場があるし。ね?」

 私の身なりがあまりにもみすぼらしく汚いから、高貴な方にご挨拶に行くには失礼だと思ったのだろう。そのことを、私を傷つけないような言葉を選びながら伝えてくれるアマンダさんの優しさに、涙が出そうだった。

「……はい。ありがとうございます」
「ふふ。ええ。……さ、立てる? あ、そうだわ。食事を後にするのなら、せめてこれだけでも飲んでみて」

 アマンダさんはそう言うと奥のテーブルに何やら取りに行った。そしてグラスを手にいそいそと戻ってくる。

「果実水よ。どう? 飲めそう? ゆっくり飲んでね」
「あ、ありがとうございます」

 これまた高価そうなグラスをおそるおそる受け取ると、アマンダさんに見守られながら私はその果実水を一口飲んだ。

(お……美味しい……っ!)

 冷たくてほのかに甘いその果実水は、まるで干からびたこの体の隅々にまで行き渡り私を元気にしてくれるかのようだった。気付けば私は夢中でグラスの中を飲み干し、その様子を見ていたアマンダさんはニコニコしながらもう一杯注いでくれた。

 結局果実水を二杯飲み干した後、私はアマンダさんに手を引かれて湯浴み場へと移動した。

「体を動かすの辛いでしょう? 私が洗ってあげましょうか?」
「っ!? いっ、いいえっ! 大丈夫です。一人で洗えますので……っ」

 アマンダさんの言葉に、私はそう返事をした。こんな痩せぎすの体を見られて、お嬢様のように湯浴みのお手伝いをしてもらうなんて、とてもできない。
 アマンダさんはそう? と言って微笑んだ。

「じゃあ、私は部屋の中で待っているから。何かあったら声をかけてね。遠慮せず、ゆっくり丁寧に洗っていらっしゃい。頭のてっぺんからつま先までね。ふふ」
「はいっ。……何から何まで、本当にありがとうございます、アマンダさん」

 彼女の気遣いと優しさが身に染みる。誰かにこんなに親切にされたのは、いつぶりだろうか。嬉しすぎて、気付けば私も笑顔になっていた。

 そのまま脱衣場で一人で服を脱ぎ、湯浴み場に入る。ベッドで休ませてもらい、美味しい果実水を二杯もいただいたおかげだろうか。体のふらつきはすっかり治まっていた。

 ホッとした私は、そこでようやく思い至った。

(頭のてっぺんから、つま先まで……。……あ……!!)





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