姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです
29. 侯爵令嬢の鋭い視線
どこからどう見ても、貴族のお嬢様だった。それもこの雰囲気とオーラから察するに、おそらくかなり良い家柄のご令嬢だろう。家令も恭しく対応している。
「ご足労いただきまして大変恐縮にございます、ブレイシー侯爵令嬢。ですが、主人は本日王宮に出仕しておりますゆえ、戻りは夜になります」
────ブレイシー侯爵令嬢……。
聞き覚えのあるその名に、私の心臓が大きく跳ねた。
彼女たちの口から、何度も聞いたことがある。
高貴なお客様の前を素通りしていくことはできずに、私はアマンダさんに倣って足を止め、家令の後ろに並び姿勢を正す。
彼女……ブレイシー侯爵令嬢は、ひどく不機嫌そうに家令を睨みつけると、扇で口元を隠すようにして低い声を出した。
「お手紙をお出ししているのよ。もう何週間お返事をいただけていないかしら。何かあったのかと心配にもなるじゃございませんこと? いくらハリントン公爵閣下とはいえ、ブレイシー侯爵家の娘であるこの私の手紙を知らんぷりなさるわけもないでしょうし」
その口調はとても嫌味っぽく、しかもゾッとするほど恨みがましくて、私はひそかに身震いした。けれど家令は動揺するそぶりなど一切見せず、静かな口調で謝罪を続ける。
「ご心労をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません、ブレイシー侯爵令嬢。主人が戻り次第、すぐに確認いたします。この数週間は何分立て込んでおりまして、おそらくは主人も気になりつつもお返事をしたためる余裕がなかったものと思います」
年配の家令の丁寧な言葉を聞きながら、私はギクリと体を強張らせた。数週間……。そうだ、ハリントン公爵……旦那様は利き腕を怪我してしまわれたから、このブレイシー侯爵令嬢へのお返事が書けなかったんだわ。だからご令嬢はこんなにもお怒りに……。
(もしかしたら、私のせいでまだ他にもいろいろな方に迷惑をかけているのかもしれないわ……)
旦那様が戻ったら確認しよう。そして私にできることがあれば、もっと積極的に手伝わなくちゃ……。
そんなことを悶々と考えていると、どうやらブレイシー侯爵令嬢は諦めたらしい。踵を返して玄関扉に向かおうとした、その時。
家令の後ろに立っていた私たちにちらりと視線を向けてきたご令嬢の目が、私の前で止まった。
(……っ?)
真っ赤な強い瞳に、心臓が痛いほど大きく跳ねる。するとご令嬢は、なぜだか家令を手で払うようにして押し退け、そのまま私の目の前までやって来た。背が高い。
そして。
パンッ! と音を立てて扇を閉じると、なんとそれを私の顎の下に当て、強引に私の顔を上げさせたのだ。驚きのあまり一瞬息が止まる。
ブレイシー侯爵令嬢は片眉を吊り上げ、不審げな顔をして私の横へとゆっくり移動する。そして閉じた扇を私の顎から離し、それで私の横髪を掬い上げしばらく観察すると、汚いものを払うようにパッと扇を振った。一体何なのだろう。私の心臓はドクドクと音を立て続けている。
「……あなた、何? いつからここで働いているのかしら。見たことがないわ」
「……はい。あの、せ、先月採用していただき、こちらのお屋敷でメイドとして勤めております」
尋問するような低い声に緊張して少し上擦ってしまったけど、どうにかそう答えることができた。隣のアマンダさんから心配そうな視線を感じる。
ブレイシー侯爵令嬢は私の返事を聞くと、無言で私の背後にゆっくりとまわった。上から下まで品定めするような鋭い視線をビシバシと感じて、変な汗が出る。
ご令嬢は私の目の前まで戻ってくるとパッと扇を開き、口元を隠した。そして目線だけをこちらに見せ、忌々しげな口調で問う。
「どこのお宅の方?」
「……私は、平民です」
「……また素性の知れぬ平民の娘などお雇いに……? ロイド様にも困ったものだわ。ハリントン公爵家の品格にも関わるというのに。私の忠告をお忘れなのかしら」
「……」
「そもそもどういった経緯でここへ? メイドの募集などしていなかったはずだけれど」
「私は他領の者でしたが、身寄りがなく、苦労しながら生活をしておりました。先日とあるきっかけで旦那様のお世話に……」
「とあるきっかけとは何? ごまかさずにはっきりと答えなさい」
「……っ、」
そのきつい命令口調に少し怯んだけれど、同時にお腹の底の方に怒りに似た感情も湧き上がる。なぜ初対面の他家の令嬢から、こんな風に詰問されなければならないのだろう。
(……でもまぁ、仕方ないのかな。このお方が旦那様とどれほど親しい仲なのか分からないけれど、おそらくは旦那様を心配してのことだろうし。どこの馬の骨とも分からぬ娘が、旦那様を誘惑するために屋敷に入り込んだのかもなんて、疑ってらっしゃるのかもしれない……)
この人の強すぎる口調が旦那様のためを思ってのことならば、とにかく事情を説明して納得していただくしかない。そう思った私は旦那様と出会った時のことをかいつまんで説明した。
「先月のとある日、私はこのハリントン公爵領のそばにあるあの森の中を歩いている時に、空腹のあまりふらつき、倒れてしまったのでございます。そこを偶然通りかかった旦那様が助けてくださり、しばらくこのお屋敷で面倒を見てくださいました。命を救っていただいたご恩返しがしたく、お手伝いを申し出たところ、こうしてメイドとして雇っていただくことに……」
「何ですって? そんな都合の良い話があるわけがないじゃないの」
ブレイシー侯爵令嬢は私の言葉を遮り、大きな声でそう言った。私は咄嗟にそれを否定する。
「い、いえ、本当です。私は……」
「ではなぜお前は森の中などをうろついていたの? おかしいじゃない。危険な獣も潜んでいる森の中に、たった一人で足を踏み入れるだなんて。そこに偶然ロイド様がやって来て、タイミングよく倒れたお前を救ってくれた、ですって……? ふ、馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てると、彼女は再び扇を閉じ、私の顎をグイと持ち上げ顔を近付けてきた。
「お前……、ロイド様に懸想しているのでしょう。身寄りのない平民でも、その多少はマシな容姿を武器にあの方に取り入り、あわよくば公爵夫人の座にまで上り詰めてやろうと……そんなことを企んでいるのではなくて?」
「ご足労いただきまして大変恐縮にございます、ブレイシー侯爵令嬢。ですが、主人は本日王宮に出仕しておりますゆえ、戻りは夜になります」
────ブレイシー侯爵令嬢……。
聞き覚えのあるその名に、私の心臓が大きく跳ねた。
彼女たちの口から、何度も聞いたことがある。
高貴なお客様の前を素通りしていくことはできずに、私はアマンダさんに倣って足を止め、家令の後ろに並び姿勢を正す。
彼女……ブレイシー侯爵令嬢は、ひどく不機嫌そうに家令を睨みつけると、扇で口元を隠すようにして低い声を出した。
「お手紙をお出ししているのよ。もう何週間お返事をいただけていないかしら。何かあったのかと心配にもなるじゃございませんこと? いくらハリントン公爵閣下とはいえ、ブレイシー侯爵家の娘であるこの私の手紙を知らんぷりなさるわけもないでしょうし」
その口調はとても嫌味っぽく、しかもゾッとするほど恨みがましくて、私はひそかに身震いした。けれど家令は動揺するそぶりなど一切見せず、静かな口調で謝罪を続ける。
「ご心労をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません、ブレイシー侯爵令嬢。主人が戻り次第、すぐに確認いたします。この数週間は何分立て込んでおりまして、おそらくは主人も気になりつつもお返事をしたためる余裕がなかったものと思います」
年配の家令の丁寧な言葉を聞きながら、私はギクリと体を強張らせた。数週間……。そうだ、ハリントン公爵……旦那様は利き腕を怪我してしまわれたから、このブレイシー侯爵令嬢へのお返事が書けなかったんだわ。だからご令嬢はこんなにもお怒りに……。
(もしかしたら、私のせいでまだ他にもいろいろな方に迷惑をかけているのかもしれないわ……)
旦那様が戻ったら確認しよう。そして私にできることがあれば、もっと積極的に手伝わなくちゃ……。
そんなことを悶々と考えていると、どうやらブレイシー侯爵令嬢は諦めたらしい。踵を返して玄関扉に向かおうとした、その時。
家令の後ろに立っていた私たちにちらりと視線を向けてきたご令嬢の目が、私の前で止まった。
(……っ?)
真っ赤な強い瞳に、心臓が痛いほど大きく跳ねる。するとご令嬢は、なぜだか家令を手で払うようにして押し退け、そのまま私の目の前までやって来た。背が高い。
そして。
パンッ! と音を立てて扇を閉じると、なんとそれを私の顎の下に当て、強引に私の顔を上げさせたのだ。驚きのあまり一瞬息が止まる。
ブレイシー侯爵令嬢は片眉を吊り上げ、不審げな顔をして私の横へとゆっくり移動する。そして閉じた扇を私の顎から離し、それで私の横髪を掬い上げしばらく観察すると、汚いものを払うようにパッと扇を振った。一体何なのだろう。私の心臓はドクドクと音を立て続けている。
「……あなた、何? いつからここで働いているのかしら。見たことがないわ」
「……はい。あの、せ、先月採用していただき、こちらのお屋敷でメイドとして勤めております」
尋問するような低い声に緊張して少し上擦ってしまったけど、どうにかそう答えることができた。隣のアマンダさんから心配そうな視線を感じる。
ブレイシー侯爵令嬢は私の返事を聞くと、無言で私の背後にゆっくりとまわった。上から下まで品定めするような鋭い視線をビシバシと感じて、変な汗が出る。
ご令嬢は私の目の前まで戻ってくるとパッと扇を開き、口元を隠した。そして目線だけをこちらに見せ、忌々しげな口調で問う。
「どこのお宅の方?」
「……私は、平民です」
「……また素性の知れぬ平民の娘などお雇いに……? ロイド様にも困ったものだわ。ハリントン公爵家の品格にも関わるというのに。私の忠告をお忘れなのかしら」
「……」
「そもそもどういった経緯でここへ? メイドの募集などしていなかったはずだけれど」
「私は他領の者でしたが、身寄りがなく、苦労しながら生活をしておりました。先日とあるきっかけで旦那様のお世話に……」
「とあるきっかけとは何? ごまかさずにはっきりと答えなさい」
「……っ、」
そのきつい命令口調に少し怯んだけれど、同時にお腹の底の方に怒りに似た感情も湧き上がる。なぜ初対面の他家の令嬢から、こんな風に詰問されなければならないのだろう。
(……でもまぁ、仕方ないのかな。このお方が旦那様とどれほど親しい仲なのか分からないけれど、おそらくは旦那様を心配してのことだろうし。どこの馬の骨とも分からぬ娘が、旦那様を誘惑するために屋敷に入り込んだのかもなんて、疑ってらっしゃるのかもしれない……)
この人の強すぎる口調が旦那様のためを思ってのことならば、とにかく事情を説明して納得していただくしかない。そう思った私は旦那様と出会った時のことをかいつまんで説明した。
「先月のとある日、私はこのハリントン公爵領のそばにあるあの森の中を歩いている時に、空腹のあまりふらつき、倒れてしまったのでございます。そこを偶然通りかかった旦那様が助けてくださり、しばらくこのお屋敷で面倒を見てくださいました。命を救っていただいたご恩返しがしたく、お手伝いを申し出たところ、こうしてメイドとして雇っていただくことに……」
「何ですって? そんな都合の良い話があるわけがないじゃないの」
ブレイシー侯爵令嬢は私の言葉を遮り、大きな声でそう言った。私は咄嗟にそれを否定する。
「い、いえ、本当です。私は……」
「ではなぜお前は森の中などをうろついていたの? おかしいじゃない。危険な獣も潜んでいる森の中に、たった一人で足を踏み入れるだなんて。そこに偶然ロイド様がやって来て、タイミングよく倒れたお前を救ってくれた、ですって……? ふ、馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てると、彼女は再び扇を閉じ、私の顎をグイと持ち上げ顔を近付けてきた。
「お前……、ロイド様に懸想しているのでしょう。身寄りのない平民でも、その多少はマシな容姿を武器にあの方に取り入り、あわよくば公爵夫人の座にまで上り詰めてやろうと……そんなことを企んでいるのではなくて?」