姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです

35. マッサージ

 私がハリントン公爵邸に初めて来た時から、およそ二ヶ月。ついに旦那様の右腕のギプスが外れた。
 その日、旦那様の私室の掃除をしていた私は、お医者様が診察している間中ドキドキしながら最初の言葉を待っていた。

「……ふむ。どうですかな? 閣下。ゆっくりと伸ばしてみてください」

 医師の言葉に、旦那様が慎重にギプスのとれた右腕の曲げ伸ばしをする。

「……痛みはない。良さそうだな」
「ようございました。しばらくは無理は禁物です。様子を見ながら少しずつ、衰え固まった筋肉を戻していくイメージでおられるといい」

 医師の言葉に、私は心底安堵した。よかった。本当によかった……。どうにか治ったみたい。
 気付かれないよう、私は深く息をついた。

「……随分と腕が細くなった気がするな」
「使っていなかった筋肉は萎縮しておりますからな。焦らずじっくりと回復を目指しましょう。毎日少しずつマッサージをして、周辺の筋肉の強張りを解いていくことも大事です」

(……なるほど)

 私が興味深そうに見ているのに気付いたのか、ベテラン医師は私の方を見ながら旦那様の腕をとり、マッサージをする仕草をしながらそのやり方を教えてくれる。旦那様のそばで仕える者の人数は限られているし、こう言っては何だけど、カーティスさんは結構がさつだ。大変失礼だが、優しい力を加えながらの繊細なマッサージなどできる気がしない……。きっと私がすることになるのだろう。

(もちろん、毎日でも毎時間でもいたしますとも……! それで旦那様が早く楽になってくださるのならば……!)

 いつの間にか私は二人の目の前まで進み出ていた。医師の説明を一言たりとも聞き逃さない勢いで、頷きながらマッサージの仕方をしっかりと教わる。
 その間、旦那様はなぜだか微妙な表情をして、私のことを見つめていた。
 


 そして、その日の夜。
 私は改めて旦那様の執務室を訪れた。

「失礼いたします旦那様。よろしいでしょうか」
「……。……ああ」
「お仕事の方は、一段落つかれましたか? 腕のマッサージをさせていただきたいのですが」

 そう言いながら私は中へ入り、机の前に座っている旦那様のおそばへと歩み寄る。奥の方ではカーティスさんが部屋の片付けらしきことをしていた。
 旦那様は少し眉間に皺を寄せ、私からスッと目を逸らした。そして小さく咳払いをする。

「……いや、そのことだが……。別に、君にわざわざしてもらわなくてもいい」
「え……? ですが、私はちょうどお医者様の説明を聞いておりましたし、きちんとしたマッサージができると思いますが」

 私がそう言うと、旦那様はもう一度咳払いをした。そして急に机の上の書類を手に取ると、そこに視線を落としたまま呟くように言った。

「……カーティスにでも教えてくれれば、わざわざ仕事が終わった夜に君を煩わせることもないだろう」
「……カーティスさんに、ですか?」
「ああ」
「……本当によろしいんですか? カーティスさんで」
「……」
「骨折から回復直後の、筋肉の衰えた利き腕を、カーティスさんにマッサージしてもらって大丈夫でしょうか……?」
「…………」

 そんな会話をしていると、奥にいたカーティスさんがピンッと反応してこちらを振り返り、スタスタとやって来る。

「え? 何だって? マッサージ? ロイド様の? いいっすよやりますよ俺」

 そう言うとカーティスさんは、まるで準備体操のように自らの両手首をブラブラと振りはじめた。そして十本の指を生き物のように動かし、うねらせる。
 カーティスさんの骨ばったたくましい指が、パキッと音を立てた。

「……やはり君に頼もう、ミシェル」
「承知いたしました、旦那様」
「えぇ!? 何でですか? 俺やるのにー」

 不満そうなカーティスさんを、旦那様が適当になだめていた。

 ソファーに移動してもらった旦那様の前に跪くように座り、私は旦那様の右腕に手を伸ばす。

「では、失礼いたします、旦那様」
「ああ。頼む」

 なぜだか旦那様の声が少し上擦っている。……そうか。旦那様は女性がお嫌いなんだものね。そりゃ本音を言えば私よりもカーティスさんにマッサージしてほしいはず。こうして腕に触れられるのも、もしかしたら気持ち悪いと思っていたりするのかしら……。
 女性に関してはこれまで散々嫌な思いをされてきたようだと、以前カーティスさんも言っていたっけ。

(できるだけ事務的に、手早く終わらせないと……。決して旦那様に不快な思いをさせたいわけじゃないもの)

 そう思って、私は医師の言葉や仕草を思い出しながら、まずは指先にそっと触れた。





< 35 / 74 >

この作品をシェア

pagetop