姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです

36. そわそわする旦那様

 私が指先に触れると、旦那様の手がピクリと反応した。

(……?)

「痛みがございますか? 旦那様」

 指先に触れたまま、私は旦那様の顔を見上げる。けれど目が合うと、旦那様はふいっと顔を背けてしまった。なんだか困ったような顔をしている気がする。

「……いや。大丈夫だ」
「そうですか? では、始めますね。ご不快でしたら仰ってください」

 そう言うと私は、旦那様の手を指先からゆっくりと揉みほぐしていく。ずっと使わずに固めていた腕の周辺の筋肉は、体を守るために硬くなっているという。指先から手、手首、さらにその上へと、優しい力を加えながら徐々に解していった。そして、関節の辺りに触れようとした、その時だった。

「……今日はもういい」
「……え?」

 旦那様がそう言って、腕を引っ込めてしまわれた。私は困惑し、彼を見上げる。

「ですが旦那様……、まだ始めたばかりですが」
「大丈夫だ」

 ……何が大丈夫なのだろう。
 咳払いをしながら立ち上がった旦那様は、再び執務机に戻っていってしまう。

「あの……、痛みましたか? 申し訳ございませんでした」

 少し落ち込みそう謝罪すると、旦那様はようやく私の顔を見た。

「いや、違う。むしろ君のマッサージはとても繊細で、気持ちが良かった。……だから余計に……」
「え?」

 何やらもごもごと呟く旦那様の言葉がよく聞こえず聞き返すと、旦那様はまた目を逸らした。

「……とにかく、今日はもう大丈夫だ。部屋に戻って休みなさい。……ありがとう」

 ……いいのだろうか。お医者様に教えられた通りのマッサージを毎日ちゃんとしないといけないと思うのだけど……。

「では、また明日の夜に伺いますね」
「……ああ。頼む」

 そう言ってみても拒絶はされなかったから、きっとものすごく嫌というわけではないのだろう。

「え? もう終わったんすか? 早っ。また明日なミシェル。お休みー」
「あ、はい。お休みなさいませ。旦那様、カーティスさん」



 やはり女性に対する嫌悪感から、受け入れがたいのかもしれないな……。
 執務室を出て自室に戻りながら、私はそんなことを考えた。

(……ううん。でもダメよ。長くギプスをつけていた、その体の緊張や強張りを早く改善するためにも、適切なマッサージが大事だとお医者様も言っていたもの。よし……明日からは多少嫌がられても、もう少し時間をかけてしっかりやっていこう!)

 それが旦那様のためなのだから。
 一日でも早く、旦那様の体を元の通りに動くようにしてさしあげたい。

 優しい旦那様のお役に立ちたいと、私の頭の中はそれだけでいっぱいだった。



 翌日から、夜私が旦那様の執務室を訪れて腕のマッサージをすることが日課となった。
 初日はあっという間に止めさせられてしまったけれど、二日目以降は一通りさせてもらえるようになった。ただ、やはり旦那様はこの時間があまりお好きではないらしい。ソファーに座る旦那様の前に跪きせっせと揉みほぐしながら、痛みはないか、ここも解して大丈夫かと逐一確認するのだけれど、そのたびに旦那様は気まずそうに「ああ」だの「問題ない」だの、小さな声で一言答えるだけだ。そして眉間に皺を寄せたり、咳払いをしたり、溜め息を漏らしたりする。……落ち着かないらしい。私は無駄口を叩かず、毎日集中してマッサージを行い、できる限り早く退散するようにしていた。

 そうして二週間ほどが経った、ある夜のことだった。
 その日執務室を訪れると、カーティスさんの姿がなかった。この時間に旦那様とここで二人きりになることはないので、少し緊張する。けれど、私はいつものように旦那様のそばに歩み寄り、マッサージを申し出た。

「旦那様、本日のマッサージを始めさせていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ。頼む」

 旦那様も普段通りの様子で静かにそう答えると、執務机からソファーに移動した。私はいつもの手順で、黙々と腕を解していく。







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