姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです
54. サロンの空気
心臓がドクドクと早鐘を打ち続ける。
(なぜパドマとエヴェリー伯爵夫人が、ここに……? だってこのお茶会の目的は、旦那様のお相手探しなのでしょう? パドマには婚約者がいるわ。あのスティーブ様が……)
その名を思い出した途端、あの男の不気味な笑みが脳裏をよぎった。エヴェリー伯爵邸の地下にあった私の部屋で、ハァハァと息を荒げ私に詰め寄ってきた、あの気持ちの悪い顔が……。
「……っ、」
また嫌な汗がじわりと浮かび、指先が震える。どうして。もう二度と会うことはないと思っていた彼女たちが、なぜこのハリントン公爵邸に現れたのだろう。
ハリントン前公爵夫人の親しい知り合いだったのだろうか。
半ば呆然としながらそんなことを考えている間に、サロンの長テーブルには全ての招待客が揃ったようだった。誰一人遅刻などしなかった。皆席につきにこやかに談笑しながらも、そわそわと落ち着かない雰囲気を感じる。ご令嬢方の何人かは、時折入り口の扉にチラチラと視線を送っていた。
すぐにお茶を出せるよう準備を整えた私たち使用人は、給湯所の前でそのタイミングを静かに待っていた。見たくもないのに、どうしてもあの二人を目で追ってしまう。末席に座るパドマとエヴェリー伯爵夫人は居住まいを正しながらも、時折私に強い眼差しを向けてきた。
(……まさか……あの二人の目的って……)
嫌な予感がむくむくと膨れ上がり、爪先から冷たくなっていく。その時、旦那様が扉の前に現れた。無表情を装いつつもどことなく不快そうな顔をして、一番奥に座っているハリントン前公爵夫人の方へと足を運んでいく。
旦那様が姿を現した途端、サロンの空気は一変した。招待客たちは一様に息を呑み、旦那様に視線を向ける。ご令嬢たちの高揚が伝わり、この場の空気が甘くたゆたうようだった。
旦那様の動きに合わせて、うっとりとした視線を滑らせるご令嬢たち。皆の瞳は蕩けたように潤み、何人かの頬はすでに上気していた。彼女たちよりは幾分落ち着いた表情を浮かべるご婦人方は、張りつめた空気をまとい全身に緊張感を漂わせていた。これから戦いが始まるのだといわんばかりに。
そんな女性たちのまとう空気を微塵も意識していないような淡々とした足取りで、旦那様は部屋の中を進んでいく。そしてふと、隅に控えている私の方に視線を向けた。
その瞬間。
(…………っ!)
彼は私を見つめて、とても優しい笑みを浮かべた。ほんの一瞬のことだったけれど、その美しい笑顔は私の胸を震わせ、甘く締め付けた。
(どうして、こんな時に私にだけ、そんなお顔を見せてくれるのですか……?)
形容しがたい切なさに、なんだか泣きたくなった。
旦那様は奥まで進み、長テーブルにズラリと並ぶ女性たちに顔を向けた。そして、母君であるハリントン前公爵夫人の最も近い席に座っている、一際目立つ赤いドレス姿のブレイシー侯爵令嬢に気付いたようだ。旦那様は一言も発さず、ご自分のそばにいる前公爵夫人に視線を落とした。
ハリントン前公爵夫人は眉尻を下げ、曖昧な笑みを浮かべる。
「やっと来たわね。……ロイド、ディーナ嬢をお招きしたのには理由があるの。でもひとまず、皆様にご挨拶を」
母君のその言葉に旦那様は特に表情を変えることもせず、女性たちを見渡しながら、よく通る低い声で言った。
「ご婦人方、ご令嬢方、本日は我がハリントン公爵邸に足をお運びいただき、感謝する。母はあなた方をお迎えし、共に楽しいひとときを過ごすことを心待ちにしていた。どうか今日は、心ゆくまで語らい、有意義な時間を過ごしていただきたい」
「さ、あなたもここへ。座ってちょうだい」
下手すれば「では私はこれで」と、このままサロンを出て行ってしまいかねない雰囲気を漂わせた旦那様に、前公爵夫人がすかさずそう声をかけ、ご自分の差し向い、ブレイシー侯爵令嬢の向かいの席を指し示した。大きなテーブルの中で、旦那様のために準備されたその席だけが空席だった。
そこに静かに腰かけた旦那様の背中越しに、向かいのブレイシー侯爵令嬢と目が合った。真っ赤なその瞳は、まるで標的を見定めたかのように私の姿を捕らえていた。
(なぜパドマとエヴェリー伯爵夫人が、ここに……? だってこのお茶会の目的は、旦那様のお相手探しなのでしょう? パドマには婚約者がいるわ。あのスティーブ様が……)
その名を思い出した途端、あの男の不気味な笑みが脳裏をよぎった。エヴェリー伯爵邸の地下にあった私の部屋で、ハァハァと息を荒げ私に詰め寄ってきた、あの気持ちの悪い顔が……。
「……っ、」
また嫌な汗がじわりと浮かび、指先が震える。どうして。もう二度と会うことはないと思っていた彼女たちが、なぜこのハリントン公爵邸に現れたのだろう。
ハリントン前公爵夫人の親しい知り合いだったのだろうか。
半ば呆然としながらそんなことを考えている間に、サロンの長テーブルには全ての招待客が揃ったようだった。誰一人遅刻などしなかった。皆席につきにこやかに談笑しながらも、そわそわと落ち着かない雰囲気を感じる。ご令嬢方の何人かは、時折入り口の扉にチラチラと視線を送っていた。
すぐにお茶を出せるよう準備を整えた私たち使用人は、給湯所の前でそのタイミングを静かに待っていた。見たくもないのに、どうしてもあの二人を目で追ってしまう。末席に座るパドマとエヴェリー伯爵夫人は居住まいを正しながらも、時折私に強い眼差しを向けてきた。
(……まさか……あの二人の目的って……)
嫌な予感がむくむくと膨れ上がり、爪先から冷たくなっていく。その時、旦那様が扉の前に現れた。無表情を装いつつもどことなく不快そうな顔をして、一番奥に座っているハリントン前公爵夫人の方へと足を運んでいく。
旦那様が姿を現した途端、サロンの空気は一変した。招待客たちは一様に息を呑み、旦那様に視線を向ける。ご令嬢たちの高揚が伝わり、この場の空気が甘くたゆたうようだった。
旦那様の動きに合わせて、うっとりとした視線を滑らせるご令嬢たち。皆の瞳は蕩けたように潤み、何人かの頬はすでに上気していた。彼女たちよりは幾分落ち着いた表情を浮かべるご婦人方は、張りつめた空気をまとい全身に緊張感を漂わせていた。これから戦いが始まるのだといわんばかりに。
そんな女性たちのまとう空気を微塵も意識していないような淡々とした足取りで、旦那様は部屋の中を進んでいく。そしてふと、隅に控えている私の方に視線を向けた。
その瞬間。
(…………っ!)
彼は私を見つめて、とても優しい笑みを浮かべた。ほんの一瞬のことだったけれど、その美しい笑顔は私の胸を震わせ、甘く締め付けた。
(どうして、こんな時に私にだけ、そんなお顔を見せてくれるのですか……?)
形容しがたい切なさに、なんだか泣きたくなった。
旦那様は奥まで進み、長テーブルにズラリと並ぶ女性たちに顔を向けた。そして、母君であるハリントン前公爵夫人の最も近い席に座っている、一際目立つ赤いドレス姿のブレイシー侯爵令嬢に気付いたようだ。旦那様は一言も発さず、ご自分のそばにいる前公爵夫人に視線を落とした。
ハリントン前公爵夫人は眉尻を下げ、曖昧な笑みを浮かべる。
「やっと来たわね。……ロイド、ディーナ嬢をお招きしたのには理由があるの。でもひとまず、皆様にご挨拶を」
母君のその言葉に旦那様は特に表情を変えることもせず、女性たちを見渡しながら、よく通る低い声で言った。
「ご婦人方、ご令嬢方、本日は我がハリントン公爵邸に足をお運びいただき、感謝する。母はあなた方をお迎えし、共に楽しいひとときを過ごすことを心待ちにしていた。どうか今日は、心ゆくまで語らい、有意義な時間を過ごしていただきたい」
「さ、あなたもここへ。座ってちょうだい」
下手すれば「では私はこれで」と、このままサロンを出て行ってしまいかねない雰囲気を漂わせた旦那様に、前公爵夫人がすかさずそう声をかけ、ご自分の差し向い、ブレイシー侯爵令嬢の向かいの席を指し示した。大きなテーブルの中で、旦那様のために準備されたその席だけが空席だった。
そこに静かに腰かけた旦那様の背中越しに、向かいのブレイシー侯爵令嬢と目が合った。真っ赤なその瞳は、まるで標的を見定めたかのように私の姿を捕らえていた。