御曹司さま、これは溺愛契約ですか?

 熱っぽい視線と声で名前を呼ばれるのも照れるが、それ以上にこの朝の過剰なスキンシップがなくても素直に起きてはくれないだろうか。幼稚園児や小学校低学年ならまだしも、翔はいい大人だ。ハグをしなければ起きれない、なんてことはあるまい。そう思っていると翔が不機嫌な声を出した。

「理由は?」
「え? ……理由?」
「やめなきゃいけない理由」

 理由、いる?
 ――要らないと思う。

 雇い主が家政婦をじっと見つめて下の名前を呼ぶ必要も、毎朝起きるたびに抱きしめる必要もないはずだ。しかしこうして何度か提案してみても翔は「名前で呼ぶことの何が悪いんだ?」「人と触れ合うことは大事らしいぞ」と、もっともらしいこじつけで美果を丸め込もうとする。

 どうしても嫌か、と問われて首を縦に振ることはないが、かといって嫌じゃない、と首を横に振ることもできない。翔もそれをわかっているはずなのに。

「理由……。理由、えっと……エプロンに皺がついちゃうので」

 それでもどうにか双方が納得できるような理由を絞りだす。

 翔の仕事服があのスタイリッシュなスリーピーススーツなら、美果の仕事服はこの綿百パーセントのシンプルなエプロンだ。仕事に勤しむ社会人の『戦闘服』とも呼べる服が皺だらけになれば、格好がつかないだろう。特に完璧を目指してそれを体現し続ける翔にとって、スーツの皺など絶対的なマイナスポイントのはずだ。

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