御曹司さま、これは溺愛契約ですか?
その腕時計はキャバクラ時代に客から送られて喜んでいたキャバ嬢もいたので、ブランド品に詳しくない美果でも知っている。
梨果の借金返済に追われている美果には、たとえ自分へのご褒美だとしても手が届かない――住む世界が違う者だけが身に着けることを許された高価な代物だ。
「時間ですので、失礼いたします」
その文字盤から退勤時間の午後三時を過ぎていることに気がつき、早口でそう告げる。
美果の宣言を聞いた萌子が、ふうん、と興味なさげに鼻を鳴らした。
「もう戻ってこないのよね?」
「はい」
「そう、ならいいわ。私と翔様の時間を邪魔しないでね」
萌子に釘を刺されたので、会釈をして一度リビングに戻る。ダイニングチェアにかけてあった通勤時に使っているパーカーを羽織ってミニリュックを背負うと、「ごきげんよう」と手を振る萌子に頭を下げて翔の家を足早に後にする。
(連絡……しておいた方がいいかな)
エレベーターに乗ってすぐ、翔への報告をどうしようかと考えた。
仮にあと二十分時間がずれていたら美果と萌子は遭遇しないまま終わっていたはずだし、婚約者の来訪なのだから知っていようと知っていまいとどうせ夜には会うだろうと想像できる。
しかし対処法を知らない案件に当たったり、予定外の状況が起こった場合は翔か誠人、あるいはその両方に連絡することになっている。
(これでよし)
プライベートの内容なので、連絡は翔だけでいいか、と判断する。手短に来客があった旨のメッセージを送ると、ふうと息を吐いて壁に額をコツンとぶつけた。
仕事はちゃんとした。何も問題ない。
けれど心がモヤモヤしてしまうのは――きっと美果の気のせいだった。