御曹司さま、これは溺愛契約ですか?
「おい」
「ひぇっ……」
腹の底を通り越して地獄の底から這い出てきたのはないかと思うほどの低い声が、美果に冷たく向けられる。その声音に綺麗な顔が歪む表情が相まって、見ていた美果の口からはつい悲鳴に似た声が溢れ出てしまった。
だが逃げるにしても逃げ場がない。
一歩、また一歩と翔がゆっくりこちらへ近付いてくる。
「今聞いたこと、喋ったらどうなるかわかってるよな?」
「え、え……?」
鋭い声と険しい表情に気圧されて、美果もその場から一歩ずつ後退する。
どういう意味だろう。今聞いたこと、というのは、翔の態度がいつもと違うことだろうか。それとも会話の内容だろうか。
しかし普段のきらきら御曹司との違いに気を取られていたせいか、聞こえてきた会話の内容はほとんど覚えていない。かろうじて覚えているのは『結婚しない』『必要ない』『仕事の邪魔』『家政婦も要らない』『まこと』の五つのみで、おそらくそれもあと数分と経たないうちに忘れてしまうだろう。
「聞いてたんだろ?」
咄嗟に「何を?」と聞き返そうとしたが、多分それは誤った選択だ。ここで変に聞き返して、墓穴を掘ってはいけない。なぜか激おこ状態の翔を、これ以上刺激してはいけない。
この場で最も最良の選択は『翔が知られたくないことに自分は一切関知していません』というアピールだ。
「さ、さやか、難しいことはわからなぁい」
翔が纏う雰囲気には、不機嫌なオーラと否定を許さない圧力が含まれている。それを感じ取った美果は、今この瞬間に取るべき最善の行動パターンを超速で導き出した。