御曹司さま、これは溺愛契約ですか?

 おそらく美果が無意識のうちに翔を避けていると確信している。けれど美果の『話したくない』『深追いされても困る』と思う感情にも気づいているからこそ、彼は美果が自ら話してくれるまで待つつもりなのだ。

 梨果とのやりとりを知られることが怖くて、翔に報告も相談も出来ない自分が情けない。そう考えながら俯いていると、ダイニングから立ち上がってスーツのジャケットを羽織った翔が、ふと何かを呟いた。

「……俺は、浮気を許してやれるほど寛大じゃないぞ」
「え?」

 ぽつりと零した言葉は、美果の耳には正確に届かなかった。だからそっと聞き返したが、頭を振った翔は「いや」と言葉を切ってリビングを後にする。

「なんでもない。そろそろ出る時間だ」
「……はい」

 廊下を進む翔の背中を追いかけて、出勤する彼を玄関先で見送る。美果の予定を伝え、バッグを手渡し、身だしなみの確認を終えると、翔がそっと腕を広げる。

「美果。行ってきますのキスは?」
「だ、だめです……仕事中なので」

 起床時のキスは半分諦めているが、出勤時のキスは毎回ちゃんと断っている。だから美果が『それは仕事じゃないです』と断れば、翔も毎回笑って諦めてくれる。なのに今日は、いつもと少しだけ様子が違った。

「……ん」

 一段高い場所にいる美果の後頭部に手を添えると、ぐっと頭を引っ張られて少し強引に口付けられる。突然のキスに思わず声が出てしまう。

 無意識に遠ざかる美果の気持ちと反比例するように、意識的に近付く翔の行動は今日も情熱的だ。

「行ってきます」
「……行ってらっしゃい、ませ」

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