御曹司さま、これは溺愛契約ですか?
苛立ちのままがりがりと後頭部を掻く翔の姿を見た美果は、『息が詰まりそうだ』と思った。肉体的には美果の環境も大変だが、精神的には翔の状況の方がよっぽど大変だと感じた。
周囲からの期待、視線、重圧、責任。――確かにいずれ彼はそれらのすべてを背負わなくてはならないのだろう。それが大企業の後継者として生まれた彼の宿命だというのも察することはできる。
とはいえ、すべての本音をこれほどまでに完璧に隠して、周囲のすべてを欺くように偽りの自分を演じる必要があるのだろうかと思う。――もっと自由に生きればいいのに、と思ってしまう。
「いいじゃないですか、そのままでも」
「は?」
そう思う気持ちが、自然と口をついて出た。勝手に言葉になっていた。
「天ケ瀬部長は人を惹きつける魅力に溢れてるじゃないですか。多少イメージが悪くなっても、それほどお仕事に影響はないと思いますけど」
頭の片隅で思う。
これはきっと、無責任な発言だ。
本当は翔の苦悩の本質もわからないような人間が、彼の人柄を知ったように安易に口を出していい問題ではない。すべての本音を隠して完璧に生きるという並大抵の努力では成し得ない決意を固めた相手に、無遠慮に告げていい言葉ではない。
だが翔の言葉や口調、表情から察するに、おそらく彼の周囲にいる人々はその本音に気づいていない。ただ自らの想いを語るだけでこんなにも苦しそうな表情をすることを、きっと誰も把握していない。本音を悟らせまいと振る舞う翔の努力が完璧すぎるがゆえに、誰も彼の苦悩に気がついていないのだ。
だからきっと、誰も教えてあげられない。本当の自分を偽ってまで無理をする必要はないことを。跡継ぎとはいえ、会社のために自分のすべてを犠牲にする必要がないことを。もっと肩の力を抜いて、楽に生きてもいいことを。