御曹司さま、これは溺愛契約ですか?

 それに年齢が二十五歳ともなると美果より若い子が次々と入ってくるし、そもそも美果は人の顔と名前を覚えるのがあまり得意ではない。勤務時間や給料の利点と店長の厚意でどうにか継続してきているが、美果は本来、この職業には向いていないのだ。

 そして何より、今の生活は圧倒的に自分のための時間が少ない。

 大好きな祖母・静枝に会いに行く時間が作れない。体力を回復するための睡眠時間も足りない。こんな生活を続けていては、いつか身体を壊してしまうだろう。それでは静枝に心配をかけたくなくて無理をしている意味がなくなる。

(……この契約を受け入れたら、お世話になった人たちを裏切ることになってしまうかもしれない)

 美果を十年以上雇ってくれている、新聞屋の心優しい夫婦。美果の苦労を知っていて時間や福利厚生の調整をしてくれる、清掃会社の親切な上司。そしてキャバ嬢としては圧倒的に不利な美果を使い続けてくれる、気さくで明るい店長。

 彼らの手を自ら離すことは、これまでの親切を裏切るという不義理になってしまうかもしれない。それに天ケ瀬グループの御曹司である翔の元で働くことに、不安がないわけでもない。

 それでも――

「本当に、いいんですか?」
「当たり前だろ。そのために契約書まで用意したんだ」

 顔を上げて目が合うと、翔がそっと笑みを深める。その笑顔に導かれるように、差し出された手に指先を伸ばす。

(それでも、私は……)

 翔の手を取ると決める。
 未来を少しだけ変える選択をする。

 驚きと緊張からまだ少しだけ指先が震えている。そんな美果の手に触れると強い力で握り返してくる翔の手は、思ったよりも温かい。

 優しい温度が美果の不安をそっと解きほぐしていく。

「私でよければ……どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ」

 こうして翔の手を取った美果の苦しくて冷たい人生は、これまでとは違った彩りの日常へと動き始めた。

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