👢 ブーツに恋して 👢  ~男と女、ブーツとブーツ、二つの恋の物語~  【新編集版】
 先週の木曜日、残業で遅くなって終電に駆け込んだわたしは、隙間が空いている座席を見つけて、無理矢理体をねじ入れた。
 右隣には小太りの中年男性が座っていて、大事そうにビジネスバッグを膝上に抱えて居眠りをしていた。
 そのバッグがパンパンに膨らんでいたので、資料がいっぱい入っているのかな、と思った瞬間、ため息が聞こえた。と同時に、ビジネスバッグの愚痴が始まった。
 
「こんなうだつの上がらないオッサンの脂っぽい手で毎日触られてさ、たまんねえぜ。ほんと最低。それにこんなにパンパンに書類詰め込まれてさ、完全に豚バッグ状態だろ。みっともないったらありゃしないよ。店頭に飾られていた時はスリムな体だったのにさ。ほんとため息しか出ないよ。なあ、あんた、俺の気持ちがわかるか?」

 えっ、
 わたし? 

 いきなりのことに戸惑っていると、「ま、あんたも大変なんだろうな。終電帰りだもんな。こき使われて毎日ぼろぼろってとこだよな。まあ、体壊さないように気をつけなよ」と今度は同情された。そして、「俺は次の駅で降りるけど、あんたは乗り過ごさないようにな。終点まで行っちゃったら帰りの電車はないぜ」と忠告された。

 唖然としていると、電車のスピードが落ちて、次の駅に滑り込んだ。
 すると、船を漕いでいた隣の中年男性がパッと目を覚まして席を立ち、すっすっとドアの前に歩いた。
 見事な変身ぶりだった。
 驚いて見ていると、ビジネスバッグがわたしに向かって手を振った。
 わたしも胸の前で小さく振り返した。
 
 お疲れ様。
 
 労いの言葉を心の中でかけた時、ドアが開いた。
 その途端、待ち切れないように中年男性が走り出した。
 乗換えがギリギリなのだろう。
 (つまづ)いたり転んだりしないように気をつけて。
 また心の中で呟くと、まるでそれを待っていたかのようにドアが閉まった。
 
 わたしは急に自分のバッグと話したくなって、心の中で声をかけた。
 しかし、反応はなかった。
 ため息や愚痴さえも聞こえてこなかった。
 自分の持ち物とはコミュニケーションが取れないらしい。
 バッグの代わりにわたしがため息をついた。


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