【Quintet】
 ひとりで電車に乗っている間も、今朝の父の真剣な顔つきが頭から離れない。普段の父はどちらかと言うと“ちゃらんぽらん”で“いい加減”で“自由人”だ。
もちろんこれは褒めている。ちゃらんぽらんでいい加減で自由人な父だからこそ、父と娘の二人での生活も楽しく過ごせているのだ。

 池袋から渋谷までは山手線で15分程度。考え事をしているとあっという間に渋谷駅に着いてしまった。
駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしている人々の装いは軽やかで華やか。新学期も始まり、学校帰りの高校生の姿も多く見えた。

今日はヴィヴァルディの四季、特に春のメロディが似合う陽気だ。渋谷の雑踏の中にも春はある。ふと香った春の匂いに嬉しくなって、沙羅はヴィヴァルディの春のメロディを心の中で口ずさんだ。

 人混みを掻き分けて公園通りを渋谷区役所方面に進んでいくと、やがて商業施設やオフィスビルの狭間から背の高いタワーマンションが現れた。
渋谷駅からは徒歩10分圏内にあるこのタワーマンションの最上階に沙羅の自宅がある。マンションのオーナーは、“ちゃらんぽらん”な沙羅の父親だ。

2年前、『沙羅が気兼ねなくピアノが弾けるようにマンションを造ったよ』と父に言われた時は言葉を失った。マンションを買ったのではなく、文字通り造ったのだ。

(私のためだけにマンション作るとか、お父さんはいつもやることが突然で壮大なんだよ……)
< 8 / 433 >

この作品をシェア

pagetop