最愛の婚約者の邪魔にしかならないので、過去ごと捨てることにしました

 泣き崩れていた彼は顔を上げると、生チョコタルトを見ては、またボロボロと大粒の涙をこぼす。結局その日は私がスイーツを食べ終わっても泣いたままで、話にならなかった。
 スイーツは美味しかったけれど、ずっと泣き続けている彼にげんなりしてしまって、最悪だったわ。
 食い逃げだとか、彼に奢らせたとか言われないために、帰りに二人分のお支払いをして帰った。途中で化粧室と言って逃げたけれど、ずっと泣き続けている見ず知らずの彼に対して、慰めるとか声をかけるなんて気持ちには一ミリもならなかった。自分はなんて冷たい人間なのだろうと思って少し凹んだ。


 ***


 今日も昨日と変わらず、牧場で羊妖精の毛を刈り取る。そして午後は糸を紡ぐ。いつもの日常、変わらない毎日最高。

「ディアンナ」
「ディアンナぁ」
「まあ、また毛を刈り取って貰わないでいたの?」
「ディアンナがいい」
「ぼくも」

 羊妖精はふわふわと浮遊しながら私に擦り寄ってきてとっても可愛い。そしてモフモフに癒される。最高の職場だわ。

「おはよう、リジー。ねぇ、今日はやたら時計塔のほうに人が行っていたけど何かあったの?」
「あ、あの辺の建物が老朽化してきたとかで、修繕する人たちじゃない? そーれーでー、デイアンナ。あの格好いい人は誰なのよ!?」
「知らないわ」
「そっか、知らないのか──は?」

 隣で羊妖精の毛を刈り取っているリジーは素っ頓狂な声を上げた。驚かれても困る。

「え、あの後カフェに行ったって聞いたけれど!?」
「カフェに入ったけれど、三時間ずっと泣いていただけで何も聞いてないから、何も知らないわ」
「はーーーー!? 三時間!? よく我慢したわね」
「これで会うのも最後だって思ったし、スイーツが思いのほか美味しくて」
「はあああああ!? 気にならなかったの!」
「全然」

 本当は少し気になった。でも向こうから何も話さなかった以上、私から歩み寄りたくなかったのだ。私にとっても過去は捨てたもの。捨てたのに呪いを詰め込んで箱に閉じ込めて、それを開けて欲しいと言われた気分だ。
 誰が開けるものか。何より自分から気にかけないといけないのか!
 私の言葉にリジーは項垂れた。

「まあ、誰も彼もが過去を思い出したいって思わないものね。……私も太ももにさ、火傷の痣があるのよ。絶対にトラウマものの何かだって思うわけ。気にはなるけれど、知ったら最後、毎日楽しいーって、時間は消えるわよね」
「でしょう! それにこの場所を出るなんて考えたくないもの。注目されるのが嫌だって昨日思った時に、『ああ、きっと私はそういう人の目に晒される何かがあったんだ』って思ったわ。すれ違いや勘違いで修復する人たちもいるけれど、私はきっとそういう類いじゃないのよ。たぶん」

 だって、三時間も一緒に居て何一つ思い出せなかったのだから、その程度の人だったのだ。すぐにあの人も、今の私を見て落胆して去って行くわ。

「ディアンナ!」
「ああ、また貴方ですか」
「先日は大変失礼しました。僕は──」
「──っ、興味ありません。三時間も一緒に居て貴方のことを欠片も思い出さなかったのですから、貴方の知っている私だった人はもういない、死んだのです」

 そう言って去ろうとしたけれど、その旅人は私の手を掴んだ。

「そんなことはない。忘れてしまっていても、ディアンナはディアンナだった。好きなスイーツも、私が泣いている時も、何も言わずに傍にいてくれた。君は昔と変わらずに優しい人だ」

 その言葉に腹が立った。何故かと言われても分からない。言葉にできないなにか形容しがたい感情に駆られて叫ぶ。

「優しい? 今の私を何も知らない癖に、過去の、貴方が見ていただけの私を押し付けないで」
「ディアンナ!」
「──っ」

 気付けば走っていた。あの人の名前も、記憶もない。
 人混みをかき分けて、逃げて、逃げて、逃げる。
 それでも自分の名前を呼ばれる度に、ドキリとした。私のことをここまで追いかけて来てくれる人がいたことに、少しだけ嬉しかった──でも彼は泣くだけで、なにも話してくれなかった。「会いたかった」とか「探した」とかそんな言葉は一言もなくて、ただ自分の感情のまま泣いていただけ。

 それを見ていても、なにも思い出せなかったし、私にとってこの人はその程度だったのだと自分にも落胆した。
 私が心穏やかに生きることを誰も許してくれないの?
 あんな悪夢のような現実が待っているなんて嫌!

「──っ」

 鐘の音が鳴り響く。
 美しい音色だった。
 透き通る青空、白い建造物に、豊かで穏やかな時間。それを奪われるくらいなら──。
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