若頭と小鳥

2 若頭と小鳥の見る海

 さやかがその同級生と再会したのは、義兄に連れられてあるホテルを訪れたときのことだった。
 その日開業したリゾートホテルは、義兄の同業者の生業の一つで、義兄とさやかは客として招かれた。
「よく来てくださった、千陀の。生業は変わりないか?」
「ああ。そちらも順調のようだね」
 オーシャンビューのレストランで、義兄は同業者の若頭からあいさつを受けていた。義兄はそれに、表向きのビジネスマンの顔で応じていた。
 さやかはというと、人目の多いところは苦手だったから、早々に隅の椅子に収まっていた。義兄が先方に伝えてくれたのか、ビュッフェやドリンクを勧めるウェイターも控えめで、さやかは眼下の海をそっと眺めて楽しんでいた。
「さやかちゃん?」
 そんな折だった。どこか不遜な調子で、さやかに声をかけた男がいた。
「ああ、やっぱりさやかちゃんだ。相変わらずちっちゃいんだね」
 その声音に覚えがあって、さやかは怯えながら息を呑んだ。
 恐る恐る目を上げれば、そこには変に甘いマスクの顔立ちと、口の片端だけ上げて話すいびつな表情がある。
「転校しちゃって残念だったなぁ。もっとさやかちゃんと遊びたかったのに」
 彼は小学校の頃の同級生で、いつもからかうような言葉遣いでさやかをいじめ抜いた。彼は、さやかにとって恐怖の対象だった。
 彼は殴る蹴るという典型的な暴力は振るわない。その代わりにぞっとするような嗜好を持っていて、さやかは彼を思い出すたびに泣いていた。
 彼は顔を寄せて、さやかの耳にささやく。
「……また俺の前でお漏らししてよ。がまんできない、情けないさやかちゃん。俺がもっと惨めな体にしてあげるからさ」
 さやかが過去の恐怖で凍り付いたとき、さやかを抱き上げた腕があった。
 さやかの頭を胸に当てて、安心させるように包んだのは義兄だった。がたがた震えているさやかの背中をそっと撫でて、義兄はさやかに告げた。
「さっちゃん、大丈夫。お兄ちゃんはさっちゃんをいつも愛してる」
 義兄はさやかにだけ向ける優しい声音で、甘くささやいた。
「さっちゃんが怖いものは全部遠ざけてあげる。……ほら、海が綺麗だよ?」
 義兄に言われて恐る恐るさやかが顔を上げると、そこには元のようにオーシャンビューが広がっていた。
 恐怖の対象だった同級生の姿も、声すらも残っていない。ただ青く晴れた空の下で、海がきらきらと輝いている。
 あのひとはどこに行ったのだろう。さやかはそう問おうとして、自分の下腹部の濡れた感触に泣きそうになる。
「ご、ごめ……お兄ちゃん」
「さっちゃんは何にも悪くない。調子が悪かっただけなんだから」
 失禁したさやかを、義兄はいつものように決して叱ることはなかった。
 義兄は愛おしそうにさやかの体を引き寄せて言う。
「上に部屋があるから、休みに行こうか。さっちゃん」
 義兄はそう言って、さやかを抱き上げたまま歩き出した。



 服を全部脱いで体を拭いてもらってから、さやかは義兄を見上げた。
 たぶんあの同級生に出会ったのが大人の時だったら、さやかは女性としても踏みにじられていた。
「さっちゃん?」
 でもベッドの上で裸でいても、義兄はさやかを凌辱することはない。子どもの頃も、大人になってからも、さやかを小鳥のように大切に守って慈しんでくれる。
 さやかははにかんで、義兄の体に腕を回した。
「お兄ちゃん、私を籠から出さないで」
 義兄の耳にさやかはそうささやいた。
 義兄はふっと笑ってそれに答える。
「うん。出してあげない」
 義兄の頑丈で温かな檻の中で、さやかは今日も幸せでいる。
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