早河シリーズ第三幕【堕天使】
上野から樋口コーポレーション前会長、樋口祥一の愛人について調査を頼まれた早河はその夜に六本木に出迎いた。
六本木ヒルズや東京ミッドタウン、けやき通り……きらびやかな街の表側とは一線を画す六本木の裏通りにそのキャバレーはある。
地下に通じる階段を降り、金の取っ手のついた木製の扉が彼を出迎えた。取っ手を回して扉を押し開けるといつものあの、甘い花の香りが漂ってくる。
「あらぁ。ジンちゃんいらっしゃい」
この店の主人、みき子ママが早河に気付いて笑顔を見せた。ローズ色の口紅に紫色のラメのアイシャドウ、金髪の巻き髪。化粧と髪型は女性だが声と体格は男性のまま。
年齢は推定で50代。名前はここではみき子と名乗っているが本名が三紀彦《みきひこ》であることを早河は知っている。
「珍しい。今日はひとり?」
『ママとゆっくり話がしたくてね』
「まぁ嬉しい。最近全然顔を見せに来てくれなかったから寂しかったのよぉ」
『ごめんごめん』
カウンター席に落ち着いた早河は店内をざっと見渡した。客は早河を除けば五人。
ステージでは扇情的な動きでポールダンスを披露する女性が二人。客は皆、酒を片手にトランプをしたりステージに釘付けになっている。
「何にする?」
『烏龍茶』
「まったくぅ。うちに来てノンアルコールの烏龍茶を頼むお客さんはジンちゃんくらいなものよ」
『仕事中だからね』
「今度はプライベートで来てよねぇ」
みき子はグラスに氷を入れ、烏龍茶を注ぐ。早河の接客だけは、他の従業員には任せずいつもみき子が行っている。
それは早河がここを訪れる時は必ず、みき子に用があるからだ。
六本木界隈のことならみき子に聞け、と言われているほどみき子は六本木の裏事情に詳しい。みき子なら樋口祥一のことも知っているかもしれない。
「要件は?」
『樋口コーポレーションの前会長の樋口祥一、知ってる?』
「もちろん。有名な方だもの」
『じゃあ樋口祥一に六本木のホステスの愛人がいて、愛人が祥一の子供を産んだって噂を耳にしたんだけど、これは本当の話?』
早河は冷たい烏龍茶に口をつけた。彼の目はみき子の表情の変化を捕らえている。
みき子のわずかな目の泳ぎは、かつて刑事として鍛練を積んだ早河だからこそ見抜けた動揺だ。
「ジンちゃん。その一件があなたの仕事に必要なことなのね?」
『俺も依頼されてこの件を調べているんだ。何か事情があるのかもしれないが、ママが知っていることを話してくれると俺も助かる』
みき子は肩を落として目を伏せた。それから煙草をくわえて一服する。
「ジンちゃんに頼まれたら仕方ないわね。……祥一さんの愛人って言うのはサクラちゃんのことよ」
『サクラ? 本名?』
「サクラは源氏名。あの子、冬生まれだからサクラって名前に憧れていてね。本名は……寺沢美雪」
みき子は店のコースターの裏側にボールペンで寺沢美雪と記入した。達筆なみき子の文字で書かれた名前を早河が手帳に書き写す。
『寺沢美雪はいつ頃、樋口祥一の子供を産んだ?』
「えーっと……私がこの商売に鞍替えしてからになるから20年以上は前になるわね。美雪ちゃんとは故郷が同じでね、よく私のお店に遊びに来てくれたの」
『ママは寺沢美雪と親しかったんだ。ママの故郷って北海道だよね?』
「あら、よく覚えているじゃない。故郷なんてもう何年も帰っていないのだけどね」
常連客が会計を済ませて店を出る。客の見送りでみき子との会話はしばし中断した。
六本木ヒルズや東京ミッドタウン、けやき通り……きらびやかな街の表側とは一線を画す六本木の裏通りにそのキャバレーはある。
地下に通じる階段を降り、金の取っ手のついた木製の扉が彼を出迎えた。取っ手を回して扉を押し開けるといつものあの、甘い花の香りが漂ってくる。
「あらぁ。ジンちゃんいらっしゃい」
この店の主人、みき子ママが早河に気付いて笑顔を見せた。ローズ色の口紅に紫色のラメのアイシャドウ、金髪の巻き髪。化粧と髪型は女性だが声と体格は男性のまま。
年齢は推定で50代。名前はここではみき子と名乗っているが本名が三紀彦《みきひこ》であることを早河は知っている。
「珍しい。今日はひとり?」
『ママとゆっくり話がしたくてね』
「まぁ嬉しい。最近全然顔を見せに来てくれなかったから寂しかったのよぉ」
『ごめんごめん』
カウンター席に落ち着いた早河は店内をざっと見渡した。客は早河を除けば五人。
ステージでは扇情的な動きでポールダンスを披露する女性が二人。客は皆、酒を片手にトランプをしたりステージに釘付けになっている。
「何にする?」
『烏龍茶』
「まったくぅ。うちに来てノンアルコールの烏龍茶を頼むお客さんはジンちゃんくらいなものよ」
『仕事中だからね』
「今度はプライベートで来てよねぇ」
みき子はグラスに氷を入れ、烏龍茶を注ぐ。早河の接客だけは、他の従業員には任せずいつもみき子が行っている。
それは早河がここを訪れる時は必ず、みき子に用があるからだ。
六本木界隈のことならみき子に聞け、と言われているほどみき子は六本木の裏事情に詳しい。みき子なら樋口祥一のことも知っているかもしれない。
「要件は?」
『樋口コーポレーションの前会長の樋口祥一、知ってる?』
「もちろん。有名な方だもの」
『じゃあ樋口祥一に六本木のホステスの愛人がいて、愛人が祥一の子供を産んだって噂を耳にしたんだけど、これは本当の話?』
早河は冷たい烏龍茶に口をつけた。彼の目はみき子の表情の変化を捕らえている。
みき子のわずかな目の泳ぎは、かつて刑事として鍛練を積んだ早河だからこそ見抜けた動揺だ。
「ジンちゃん。その一件があなたの仕事に必要なことなのね?」
『俺も依頼されてこの件を調べているんだ。何か事情があるのかもしれないが、ママが知っていることを話してくれると俺も助かる』
みき子は肩を落として目を伏せた。それから煙草をくわえて一服する。
「ジンちゃんに頼まれたら仕方ないわね。……祥一さんの愛人って言うのはサクラちゃんのことよ」
『サクラ? 本名?』
「サクラは源氏名。あの子、冬生まれだからサクラって名前に憧れていてね。本名は……寺沢美雪」
みき子は店のコースターの裏側にボールペンで寺沢美雪と記入した。達筆なみき子の文字で書かれた名前を早河が手帳に書き写す。
『寺沢美雪はいつ頃、樋口祥一の子供を産んだ?』
「えーっと……私がこの商売に鞍替えしてからになるから20年以上は前になるわね。美雪ちゃんとは故郷が同じでね、よく私のお店に遊びに来てくれたの」
『ママは寺沢美雪と親しかったんだ。ママの故郷って北海道だよね?』
「あら、よく覚えているじゃない。故郷なんてもう何年も帰っていないのだけどね」
常連客が会計を済ませて店を出る。客の見送りでみき子との会話はしばし中断した。