早河シリーズ第三幕【堕天使】
7月19日(Fri)

 莉央の通う聖蘭学園は今日は1学期の終業式だった。

「明日からはぁー、夏休みぃ〜、なっつやっすみぃ〜」

 終業式を終えて教室に居残っていた香道なぎさは、浮かれ口調で鼻歌を口ずさむ。彼女は差し出された莉央の爪にマニキュアを塗っていた。

机にはなぎさが持参した何種類ものマニキュアやネイルシール、キラキラと輝くラインストーンのケースが並ぶ。

「なぎさって本当に器用だよね」
「へへっ。雑誌の見よう見まねしてるだけだよー」

ネイルアートに凝っているなぎさに、こうしてネイルをしてもらう時間が莉央は好きだった。

「莉央、何かあった?」
「え?」
「最近元気なさそうだったから。何もないならいいんだけど、ちょっと心配になっちゃって」

 対面してネイルアートをするなぎさは莉央の爪から視線を上げて微笑む。このなぎさの笑顔に莉央がどれだけ救われているか、なぎさは知らない。

「心配かけてごめんね。何もないから大丈夫だよ」
「……そっか。それならいいの」

莉央の嘘になぎさはわざと騙されているように見えた。本当は気付いていることもあるはずだ。それでもなぎさは莉央の言葉を信じている。

(なぎさ、ごめんね。ありがとう)

 婚約者の相澤直輝のことも相澤の仲間に薬を使って犯されたこともなぎさには言えない。
相澤とはその後に連絡を取り合うことも会うこともしていない。向こうから一方的に来る電話やメールを莉央はすべて無視していた。

(なぎさとこうやって話したり遊んだりできるのも高校を卒業するまでなのね。来年には私は直輝さんとパリに行って……結婚させられる)

来年の6月にはあの最低な男の花嫁となって、最低な男の遺伝子を宿した子供を産む人生が待っている。
本当にそれだけ? 本当にそれでいいの?

「よし! できた」
「わぁ……可愛い! ありがとう」

 シアーで淡いラベンダーのマニキュアが塗られた莉央の爪には、白い花のネイルシールとシルバーやピンクのラインストーンが絶妙な配置でアートされている。ラベンダー色に染まる自分の爪を見て俊哉との山梨旅行を思い出した。

(俊哉お兄さんと行った山梨の八木崎公園のラベンダー、一度でいいから見てみたかったな)

 吹奏楽部の練習を終えた麻衣子が教室に帰って来た。

「待たせてごめんねっ。練習長引いちゃった」
「麻衣子お疲れ! じゃ、行こっか」

 立ち上がるなぎさにつられて莉央も席を立つ。これから三人で遊びに出掛ける予定だ。
8月には麻衣子の家でお泊まり会をする約束もしている。

 明日からは莉央の高校生活最後の夏休み。
空虚と幻惑のサマーバケーションが始まる。
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