早河シリーズ第三幕【堕天使】
 相澤直輝が死んだ。彼の死は莉央に大きな衝撃を与えた。相澤が死んで悲しいのではない。ホッとしているのだ。

人が死んで嬉しいと思ってしまった自分の感情に莉央はショックを受けていた。

(私はいつか直輝さんを殺していたかもしれない。私があの男を殺していたかもしれない)

 初めて人を憎いと思ったのはいつだった?
 初めて人を殺したいと思ったのはいつだった?

 そうだ、思い出した。父の祥一が死去した一昨年の11月最後の肌寒い夜。

あの夜に莉央は父の死の真相を知った。心臓の持病を患っていた祥一の発作止めの薬を妻の雅子と、息子の宏伸と俊哉、祥一の主治医の永山が共謀して別の薬にすり替えた。

 実際に祥一の薬をすり替えたのは誰かわからないが、おそらく雅子だろう。薬をすり替える計画を持ちかけた主犯も雅子かもしれない。

主治医の永山医師が後でピルケースの中身を元の発作止めの薬に戻した。宏伸と俊哉はその計画を知っていて止めなかった。

(みんなそれぞれお父様が邪魔だった。だから……)

雅子は樋口財閥と樋口コーポレーションを意のままにするため、主治医の永山は雅子の愛人。
長男の宏伸と次男の俊哉が父親の殺害計画を止めなかった理由を推察するのは難しい。

(宏伸お兄さんはお父様にコンプレックスを持っているように見えた。じゃあ俊哉お兄さんは?)

 俊哉が部屋を去った後、ドレッサーの引き出しに仕舞われた小箱を取り出す。小箱に眠る銀の花の指輪を手のひらに転がした。
この指輪は俊哉の束縛と愛の鎖。


 ──“いつかちゃんと手離すから。だからそれまでは俺だけのものでいて”──


いつか手離すと言いながら俊哉はこの指輪を左手の薬指に嵌めた。あの桜の木の下で交わされた言葉は兄からの悲しいプロポーズだった。

(俊哉お兄さんはどうしてお父様を殺したかったの?)

 母親を亡くした莉央は唯一の居場所であった父親も奪われた。父を殺した男に愛され、父を奪った男を愛した。
俊哉に愛されることも俊哉を愛することも苦しかった。きっともう限界だ。

 婚約者の相澤直輝がこの世からいなくなり、婚約の話も白紙になった。高校卒業後にパリのフィニッシングスクールに通って花嫁修行をすることもなく、自分のこれからがどうなるのかわからない。

このまま此処に居れば俊哉は莉央を求め、莉央も俊哉を求め、兄と妹は離れられずに何年も恋人の真似事をして過ごし、また雅子の策略で好きでもない男と婚約させられる。

 銀の花の指輪を握りしめて莉央は決心を固めた。此処から出よう。
この息苦しい籠を抜け出して自由になろう。

 2日に俊哉と出掛けた追悼コンサートでも、4日に麻衣子の家になぎさと宿泊した夜も、その後も莉央は心に秘めた想いを誰にも悟られないように残りの日々を淡々と過ごした。

 樋口家を出る、それは俊哉だけではなく、なぎさや麻衣子との別れも意味している。

 もう二度と会えない覚悟、もう二度とこんな楽しい時間は過ごせない覚悟。もう二度と……誰とも、誰にも会えない覚悟。

多くの覚悟を決めた莉央の覚悟は揺らがぬまま、8月10日の朝焼けを迎えた。
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