早河シリーズ第三幕【堕天使】
 ──“なぁ、莉央。水槽で飼われてる魚と海にいる魚、どちらが幸せだと思う?”──



8月10日(Sat)

 建物に入った瞬間にひやりとした冷気が肌を包む。真夏のオアシスは紺碧の世界。海の生き物達が優雅に暮らしていた。

『お前はこういう場所好きだよな』
「水族館って海の中に入れる気がして落ち着くの」

 水族館の館内を莉央と俊哉は手を繋いで歩いている。ここは横浜の八景島シーパラダイス。

二人はホッキョクグマの水槽の前で立ち止まった。ガラス越しのホッキョクグマは水の中を悠々と泳いで莉央と俊哉に近付いてくる。

『呑気者な顔してるなぁ』
「うん。大きな犬みたい」
『莉央のことじっと見てるぞ。さてはこの熊、面食いだな』

 俊哉はホッキョクグマの目の前のガラスをトントンと指で叩く。ホッキョクグマが肉球の見える大きな手で水槽に触れた。

ペンギンやセイウチも鑑賞して、床から天井までを占める巨大な水槽に足を進める。弱肉強食の自然の海を再現した水槽ではイワシの群れやエイ、サメが泳いでいた。

 一昨年に俊哉と別の水族館に行った時のことだ。まだ二人が兄と妹だった頃、今日と同じような今日な水槽を見つめて俊哉が呟いていた言葉がある。


 ──“なぁ、莉央。水槽で飼われてる魚と海にいる魚、どちらが幸せだと思う?”──


 餌の保証があっても自由のない水槽の魚、自由はあっても餌の保証のない海の魚。
どちらが幸せかと聞かれてもあの頃の莉央には答えられなかった。たけど今の莉央はこの難問の答えを出している。

彼女が望むのは自由の獲得だ。それ以外に望みはない。

 ふわりふわりと不思議に浮かぶクラゲの水槽を俊哉は物珍しげに見物している。ここには海中の夜空が広がっていた。

(ごめんね、ごめんなさい……)

はしゃぐ俊哉に気付かれないように、心の中で謝罪して莉央は穏やかに微笑する。すべてを隠して、今日一日だけは、あと少しだけは。
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