早河シリーズ第三幕【堕天使】
8月11日(Sun)

 樋口家のキッチンの壁には各人のスケジュールが貼り出されている。今日は莉央を除く樋口家の人間は午後から家を空ける日だった。

昨夜、俊哉と横浜のラブホテルに一泊した莉央は午前中に樋口邸に帰宅した。スケジュールによれば俊哉は午後4時から出掛ける予定があり、彼の帰宅は深夜になる。

 出掛ける俊哉を玄関まで見送る。いつもと変わらない態度で、いつもと変わらない顔で、「いってらっしゃい」と彼を送り出せた。

もう「お帰りなさい」と彼を迎えることはない。これでいいと固く決めた決心なのに、どうしようもなく寂しかった。

 樋口邸の離れに住む宏伸の妻は実家に帰っていて不在、盆のシーズンの休暇をとって使用人の数もいつもの半分に減っていた。残りの使用人もトメに用事を言い付けられて外出している。

雅子も宏伸も俊哉も出掛けている今、樋口邸には莉央とトメしかいない。家を出るならば今日しかない。
今日を逃せばまたこの籠に囚われの身だ。

 午後5時。日が少しずつ傾き、窓の外には夏の夕暮れの気配が漂っている。

 莉央は机の引きだしを開けて銀色の鍵を握り締めた。その鍵は父、祥一の友人である片山良幸から渡された貸金庫の鍵。
貸金庫には莉央名義の預金通帳、土地の権利書と実印が入っている。

預金通帳に記された金額と土地の金額を合わせて億単位の遺産が莉央に遺された。
この遺産の存在は莉央と片山弁護士だけが知っている。樋口家の人間には知られてはいけない秘密の財産だ。

 ネックレスのチェーンを首に巻く。チェーンから下がる金色の指輪は母の形見。
父が母に贈った指輪の内側に刻まれた婚約記念日を表す19840307、この数字のもうひとつの意味がわかるのは莉央だけ。

指輪に刻まれた8桁の数字が貸金庫を開ける暗証番号になっている。
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