早河シリーズ第三幕【堕天使】
8月12日(Mon)午前7時
場所は渋谷区松濤の樋口邸。昨夜遅くに帰宅した俊哉は寝惚け眼の相貌で階下に降りてきた。
リビングに入った途端に感じた張り詰めた空気に彼は何か起きたと悟る。ソファーには不機嫌な顔の母の雅子と、母の顔色を窺う兄の宏伸がいた。
『母さん、そんな難しい顔してるとシワ増えるぞ』
わざと茶化しても雅子はにこりとも笑わない。
「俊哉。そこに座りなさい」
『朝から説教? 俺は朝飯もまだなんだけど』
「いいから。座りなさい」
有無を言わさぬ態度の雅子に俊哉は仕方なくソファーに腰掛けた。
「莉央が家を出たわ」
『……は?』
これから何の叱責かとうんざりしていた俊哉が耳にした雅子の言葉は彼の予想外のものだった。
『家を出たって……』
「家出したの。昨日の夕方に出ていったそうよ。トメが協力したんですって」
俊哉は雅子の傍らに控えるトメを見る。トメは唇を固く結んで直立不動で立っていた。
『トメ……どういうことだ? なんで莉央を止めなかったっ!?』
無意識に大きく荒くなる声を抑える余裕もない。トメは背筋を伸ばして俊哉と向き合った。
「私にはもうこれ以上、お嬢様の悲しいお顔を見ることが堪えられませんでした。お嬢様は俊哉様とのご関係に悩んでいらっしゃいました。俊哉様を男性としてお慕いしていらしたご自分を責めていました。悩んで苦しんで……すべてお嬢様がお決めになったことです」
トメの目に込められた悲痛な叫びに俊哉は押し黙る。行き場のないこの感情をどこにぶつければいいのかわからず、彼は手近のクッションに拳を撃ち込んだ。
『莉央はどこに行った?』
俊哉の問いにトメは首を横に振るばかり。
「お嬢様の行き先は存じ上げません。どこに行かれたのか……私にはわかりません」
『じゃあすぐに警察に知らせる。莉央を捜さねぇと……』
「その必要はないわ。警察には届けません」
腰を浮かせた俊哉に対して雅子の厳しい声が飛ぶ。俊哉は澄まし顔の母親を睨み付けた。
『なんでだよ……母さん』
「家出した人間を捜す必要はないと言っているの。莉央も私達が留守の隙を狙って家を出たのだから、捜されたくもないでしょう。あの子の意思を尊重してあげるのよ」
莉央を捜す気のない雅子に腹を立てた俊哉は乱暴にリビングの扉を開けて出ていった。
場所は渋谷区松濤の樋口邸。昨夜遅くに帰宅した俊哉は寝惚け眼の相貌で階下に降りてきた。
リビングに入った途端に感じた張り詰めた空気に彼は何か起きたと悟る。ソファーには不機嫌な顔の母の雅子と、母の顔色を窺う兄の宏伸がいた。
『母さん、そんな難しい顔してるとシワ増えるぞ』
わざと茶化しても雅子はにこりとも笑わない。
「俊哉。そこに座りなさい」
『朝から説教? 俺は朝飯もまだなんだけど』
「いいから。座りなさい」
有無を言わさぬ態度の雅子に俊哉は仕方なくソファーに腰掛けた。
「莉央が家を出たわ」
『……は?』
これから何の叱責かとうんざりしていた俊哉が耳にした雅子の言葉は彼の予想外のものだった。
『家を出たって……』
「家出したの。昨日の夕方に出ていったそうよ。トメが協力したんですって」
俊哉は雅子の傍らに控えるトメを見る。トメは唇を固く結んで直立不動で立っていた。
『トメ……どういうことだ? なんで莉央を止めなかったっ!?』
無意識に大きく荒くなる声を抑える余裕もない。トメは背筋を伸ばして俊哉と向き合った。
「私にはもうこれ以上、お嬢様の悲しいお顔を見ることが堪えられませんでした。お嬢様は俊哉様とのご関係に悩んでいらっしゃいました。俊哉様を男性としてお慕いしていらしたご自分を責めていました。悩んで苦しんで……すべてお嬢様がお決めになったことです」
トメの目に込められた悲痛な叫びに俊哉は押し黙る。行き場のないこの感情をどこにぶつければいいのかわからず、彼は手近のクッションに拳を撃ち込んだ。
『莉央はどこに行った?』
俊哉の問いにトメは首を横に振るばかり。
「お嬢様の行き先は存じ上げません。どこに行かれたのか……私にはわかりません」
『じゃあすぐに警察に知らせる。莉央を捜さねぇと……』
「その必要はないわ。警察には届けません」
腰を浮かせた俊哉に対して雅子の厳しい声が飛ぶ。俊哉は澄まし顔の母親を睨み付けた。
『なんでだよ……母さん』
「家出した人間を捜す必要はないと言っているの。莉央も私達が留守の隙を狙って家を出たのだから、捜されたくもないでしょう。あの子の意思を尊重してあげるのよ」
莉央を捜す気のない雅子に腹を立てた俊哉は乱暴にリビングの扉を開けて出ていった。