早河シリーズ第三幕【堕天使】
トメが雅子の前に進み出る。70歳を越えても背筋の曲がらない背中で彼女は雅子を見据えた。
「奥様。どうか私を処分してください。私は貴女様に背く行いをいたしました。ですから……」
「わかりました。もう明日から来なくて結構よ。今までご苦労様」
雅子はトメの申し出をあっさり承諾する。
「莉央を可愛がっていたあなたは私のことを恨んでいるでしょうね」
「いいえ。そんなことは……。私は貴女様が嫁がれた頃からこちらでお世話になっております。こちらに仕《つか》えて40年、貴女様をお側で見てきました。恨むことなどいたしません。ただ……お嬢様がいらしてからは、私はお嬢様を主と思い、お仕えして参りました。お嬢様がこちらに居なくなられた今となっては、私も不要なのでございます」
一礼してトメがその場を下がる。雅子は鼻息を漏らしてふんぞり返った。
「宏伸。俊哉の縁談の準備を進めなさい」
『宮村家のご令嬢とのですか?』
「そうよ。アレもあの歳まで独り身でフラフラしているから妹に情が移るのよ。年内には結納まで終わらせられるようにお相手側との調整を進めてちょうだい」
『わかりました』
長男の宏伸はどこまでも母親に忠実……いや、母親の言いなりだ。それに比べて次男の俊哉は……。
「俊哉もトメも、どうしてみんな莉央に味方するのかしらね。口を開けば莉央のことばかり。やっぱり莉央は悪魔なのよ。あの子は悪魔の女なのよ……おお、恐ろしい」
こめかみを押さえて雅子はぶつぶつと独り言を呟いていた。
*
俊哉は階段を駆け上がって三階の莉央の部屋に入る。室内は不気味なほどスッキリ片付いていた。
クローゼットには莉央の高校の制服がそのまま掛けられていたが、ここに入っているはずの旅行用のキャリーバックが見当たらない。
『まじに出て行ったのかよ……』
莉央が家出をした。その事実を彼はまだ受け止められない。
ドレッサーの上に置かれた小箱が視界に入る。小箱の下にはラベンダー色の封筒があり、彼は小箱と共に封筒を手にした。
『なんだこれ。手紙?』
花の装飾があしらわれたラベンダーの封筒から折り畳まれた同じ色の便箋を出す。莉央の文字で綴られた文面に俊哉の顔が悲しく歪んだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
俊哉お兄さんごめんなさい。
私のことは忘れてください。
今までありがとう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
小箱の中身は山梨旅行で莉央に贈った銀の花の指輪が入っている。指輪を握り締めて俊哉は床に崩れ落ちた。
便箋に雫が落ちてボールペンで書かれた莉央の文字が滲む。
『……莉央……』
手紙には愛の言葉はひとつもない。一昨日はあんなに愛し合ったのに淡白なものだ。
それでもこの手紙は莉央が俊哉に宛てた悲しいラブレターだった。
愛する妹は兄のもとを去った。俊哉が莉央に贈った悲しい結婚指輪に悲しいラブレターを添えて。
永遠に。さようなら。
「奥様。どうか私を処分してください。私は貴女様に背く行いをいたしました。ですから……」
「わかりました。もう明日から来なくて結構よ。今までご苦労様」
雅子はトメの申し出をあっさり承諾する。
「莉央を可愛がっていたあなたは私のことを恨んでいるでしょうね」
「いいえ。そんなことは……。私は貴女様が嫁がれた頃からこちらでお世話になっております。こちらに仕《つか》えて40年、貴女様をお側で見てきました。恨むことなどいたしません。ただ……お嬢様がいらしてからは、私はお嬢様を主と思い、お仕えして参りました。お嬢様がこちらに居なくなられた今となっては、私も不要なのでございます」
一礼してトメがその場を下がる。雅子は鼻息を漏らしてふんぞり返った。
「宏伸。俊哉の縁談の準備を進めなさい」
『宮村家のご令嬢とのですか?』
「そうよ。アレもあの歳まで独り身でフラフラしているから妹に情が移るのよ。年内には結納まで終わらせられるようにお相手側との調整を進めてちょうだい」
『わかりました』
長男の宏伸はどこまでも母親に忠実……いや、母親の言いなりだ。それに比べて次男の俊哉は……。
「俊哉もトメも、どうしてみんな莉央に味方するのかしらね。口を開けば莉央のことばかり。やっぱり莉央は悪魔なのよ。あの子は悪魔の女なのよ……おお、恐ろしい」
こめかみを押さえて雅子はぶつぶつと独り言を呟いていた。
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俊哉は階段を駆け上がって三階の莉央の部屋に入る。室内は不気味なほどスッキリ片付いていた。
クローゼットには莉央の高校の制服がそのまま掛けられていたが、ここに入っているはずの旅行用のキャリーバックが見当たらない。
『まじに出て行ったのかよ……』
莉央が家出をした。その事実を彼はまだ受け止められない。
ドレッサーの上に置かれた小箱が視界に入る。小箱の下にはラベンダー色の封筒があり、彼は小箱と共に封筒を手にした。
『なんだこれ。手紙?』
花の装飾があしらわれたラベンダーの封筒から折り畳まれた同じ色の便箋を出す。莉央の文字で綴られた文面に俊哉の顔が悲しく歪んだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
俊哉お兄さんごめんなさい。
私のことは忘れてください。
今までありがとう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
小箱の中身は山梨旅行で莉央に贈った銀の花の指輪が入っている。指輪を握り締めて俊哉は床に崩れ落ちた。
便箋に雫が落ちてボールペンで書かれた莉央の文字が滲む。
『……莉央……』
手紙には愛の言葉はひとつもない。一昨日はあんなに愛し合ったのに淡白なものだ。
それでもこの手紙は莉央が俊哉に宛てた悲しいラブレターだった。
愛する妹は兄のもとを去った。俊哉が莉央に贈った悲しい結婚指輪に悲しいラブレターを添えて。
永遠に。さようなら。