早河シリーズ第三幕【堕天使】
 乱れた服と下着を付け直し注射器をコートのポケットに入れた。反対側のポケットには銃弾のない空の拳銃。最初から拳銃を使うつもりはなかった。

「色仕掛けに騙されるなんて……バカな人」

 俊哉の唇には莉央のローズピンクの口紅がわずかに付着している。数えきれないくらいのキスの証。

会わなかった年数分のキスをした。もう二度とできない永遠のキスをした。

ハンカチで俊哉の唇についた口紅を拭い、瞼を降ろさせる。予想外に涙は出なかった。泣くと思っていたのに、不思議だ。

 ごめんね、ごめんねと、口の中で何度も呟く。

「髭くらい剃りなさいよね……“お兄ちゃん”」

 酒の散乱するテーブルの片隅に指輪のケースがあった。蓋の開かれたケースには見覚えのある銀の花の指輪がひとつ。彼女はそれを持って俊哉の自宅を出た。

 かつて愛していた男を殺した。兄でもあり恋人でもあった男を。
兄を愛した“あの頃の寺沢莉央”もたった今殺した。

 莉央の手に握られた注射器を見ても俊哉は逃げなかった。『殺したいなら殺せよ』と囁いた声は、昔と同じ優しい響きだった。
どこまでも優しくてどこまでも愚かな兄だった。

 さようなら、妹を愛した樋口俊哉。
 さようなら、兄を愛した寺沢莉央。
 さようなら、兄に愛された愚かな妹。

「愛してる……か」

 マンションの外に出た莉央は目を閉じてゆっくりと呼吸する。俊哉と過ごしたあの頃の思い出が甦り少しだけ涙腺が緩んだ。そうか、今ようやく実感が湧いたのだ。

 最期に触れられた頬に残る情事の痕跡を手で拭う。ショーツの奥底は今もまだ熱を帯びてとろみがあった。
もしも時間が許すなら、あのまま俊哉に抱かれていただろう。
一瞬でも、俊哉から与えられる快楽に呑まれた事実に悔しくなって彼女は溜息をつく。

 許せないから殺したの。愛しているから殺したの。


『莉央』

 名前を呼ぶ声に莉央は顔を上げた。前方にキングが立っている。

「すべて終わったわ」
『ご苦労様。帰ろう。私達の家に』

 貴嶋が笑顔で差し出した手を莉央はとる。月明かりを背にして二人分の影が重なった。

『おやおや首に……。殺される寸前でも大したものだ』

 キングが莉央の黒いコートの襟から覗く首筋に触れた。莉央は首筋に触れてそこに何があるのかを理解した。

『これはお兄さんが莉央につけた罪人の烙印なのかもね』

莉央の首筋には俊哉が最期の瞬間に刻み付けた赤いキスマークが烙印のように遺されていた。最期の最後まで彼は妹を愛し続けた。

 愛していた? 愛されていた?
どこまでも堕ちていくそこは彼と彼女の悲しい愛の失楽園。



  ーENDー
→失楽園 Sequel に続く
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