早河シリーズ第三幕【堕天使】
第三章 レーゾンデートル
 1998年 7月。北海道小樽市。

 開けた窓から爽やかな風が吹き込んでくる。寺沢莉央はベッドの傍らの椅子に座って、剥いたリンゴにフォークを刺して口に運ぶ。
細い腕を点滴の管に繋がれた母、寺沢美雪がベッドで寝ている。

「夏休みに入ったらお父様とクルーザーに乗る約束したの。お母さんも一緒に乗ろうね。みんなで海見に行こう?」
「海かぁ……そうね。行きたいなぁ」

美雪は枕に沈む顔を動かして開け放たれた窓の向こうに目を細めた。痩せた母の手を莉央が握る。

「大丈夫。絶対行けるよ」

 莉央は母の枕元に顔を寄せ、美雪が優しく莉央の髪をすく。
穏やかで優しい夏の風が莉央の前髪をふわりと揺らした。

 1週間後。中学の終業式を終えた莉央は母の待つ病院に向かった。
バスを降りて病院までの道を走る莉央のセーラー服の襟が軽やかに翻《ひるがえ》る。ようやく明日から夏休み。
母の側にずっと居られることが莉央は嬉しかった。

 病院の自動扉をくぐると、ほどよく効いた冷房の冷気が汗を浮かべた白い額に当たって気持ちがいい。

途中のコンビニで買ったカップアイスが溶けていないか心配だった。自分用のチョコミントアイスと母の分のバニラアイス、二つのアイスが入るビニール袋を提げてエレベーターのボタンを押した。

(明日はお父様もこっちに来てくれる。みんなで一緒に居られる)

 秋には14歳になる莉央は大人の事情も多少は理解している。父、樋口祥一には東京に妻子がいる。
母の美雪は父の愛人、自分は愛人の子供。

 東京で会社を経営する祥一は月に何度か北海道まで来てくれるが、いつも数日して東京に戻ってしまう。
小学生の頃は父が東京に帰る日は寂しくて悲しくて、帰らないでと泣いてだだをこねていた。そんな時は母に「お父様を困らせてはダメ」ときつく叱られていた。

昔はどうして父とずっと一緒に居られないのかわからなくて、天気予報に映る東京の文字を見るたびに父が恋しくなった。
本当は父と母と三人で暮らしたい。でもそんな望みを持ってはいけない。

 エレベーターを降りて廊下に出た莉央の目の前を看護師がせわしなく駆けて行く。病院の様子がどことなくいつもと違った。
顔馴染みの看護師が廊下の隅で立ち尽くす莉央を見つけて慌てて駆け寄って来た。

「莉央ちゃん! 今莉央ちゃんを呼ぼうとしていたところなの」
「どうしたんですか?」
「お母さんの容態が急変したのよ!」
「……え?」

 もしかしたらアイスはカップの中で溶けていたかもしれない。アイスの入ったビニール袋をあの時どこに置き忘れてきたか、莉央は思い出せない。
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