早河シリーズ第三幕【堕天使】
 1998年7月29日午前4時。夏の夜明け前の空はピンクと紫のグラデーション。
少しずつ空が明るくなる月と太陽が交わる瞬間に寺沢美雪は38歳の若さで天に昇った。

 美雪の葬儀の夜、美雪の遺骨の前に並んで座るのは貫禄のある大きな背中と小さく頼りない背中。
父の広い胸板に顔を埋めて莉央は目を腫らして泣いていた。

『これは莉央が持っていなさい。お母さんの形見だ』

 祥一が莉央の手に握らせたものは金色に輝く指輪。指輪の内側には母の名前が彫られている。

「これ……お父様がお母さんにプレゼントした指輪だよね。お母さんがいつも嵌めてた…」

手のひらに転がる金色の指輪。この指輪は美雪の分身だ。これからの莉央の心の支えだ。

『莉央、これからは東京でお父さんと一緒に暮らそう』
「東京で?」
『そうだ。これからは莉央とずっと一緒に居るからね。莉央は父さんの宝物だ』

祥一は愛しい娘を抱き締めた。

 母親を失った莉央には祥一しかいない。父と一緒に東京で幸せな生活が送れると、この時の莉央はまだ夢見ていた。
これが地獄の始まりだとも気付かずに。

 寺沢美雪の死去から2週間後、8月某日。
見渡す限りの人の波、車が連なる大通り、見上げていると首が痛くなる高層ビル。
ここは日本の首都、東京。日本で一番の大都会。

 莉央は後部座席から眺める景色を目で追った。東京を訪れるのは三度目になる。前に来たときは小学六年の冬休みだったので2年振りだ。

『莉央の荷物は家に届いている。足りない物は追い追い揃えていこう』
「お父様、本当に私が一緒に暮らしてもいいのかな」

祥一に顔を向けた莉央の目には不安が宿る。莉央の肩を抱き寄せた祥一は彼女の滑らかな頬を撫でてで微笑んだ。

『いいに決まってるだろう。莉央は私の娘だ。誰に何を言われても堂々としていなさい』

 二人を乗せた車が渋谷区松濤の樋口邸の前で停車する。祥一に手を引かれて莉央は樋口家の大きな門をくぐった。

樋口邸は三階建ての西洋建築、青い屋根が印象的だ。ドラマでしか見たことがないお金持ちの立派なお屋敷が実在することに中学生の莉央はただただ感動していた。

「旦那様、お嬢様。お帰りなさいませ」

 玄関先でエプロンをつけた老婆が腰を30度折り曲げて出迎えている。祥一が手荷物を老婆に預けた。

『ただいま。莉央、この人は家政婦のトメだ。わからないことがあれば何でもトメに聞くと言い。トメ、莉央の荷物は届いているな?』
「はい。ご指定されたお部屋に運んであります。お嬢様、家政婦のトメと申します。ご用があれば何なりとお申し付けくださいませ」
「あっ……はい! よろしくお願いします」

莉央は被っていた麦わら帽子を脱いでトメにお辞儀を返す。慣れないお嬢様呼びが照れ臭い。
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