早河シリーズ第三幕【堕天使】

 俊哉と出掛けた先は都内の水族館。本当は今日は父と上野動物園に行く予定で、俊哉に動物園に連れて行ってもらおうとしたのだが、生憎《あいにく》天気が崩れて雨が降ってきた。
動物園は止めて水族館にしようと提案したのは俊哉だった。

 水族館の中は青い世界が広がっていた。青の世界を色とりどりの魚が泳いでいる。

館内は大勢の人で賑わっていて通路を歩いていると俊哉との距離が少しずつ開いて間に人が入り込んでしまう。
後ろを振り向いた俊哉は立ち止まって莉央が追い付くのを待っていた。

『世話の焼ける妹だな。はぐれるなよ』

 俊哉が莉央の手を繋ぐ。初めて繋いだ俊哉の手の大きさ、温かさに心臓がドキドキと高鳴っている。

館内が青と暗闇の世界であったことで莉央の赤らんだ顔に俊哉は気付いていない。兄と手を繋いだだけでこんなに恥ずかしくなる自分はどこかおかしいのかもしれない。

祥一と手を繋いでも恥ずかしくなることはなかったのに、俊哉とはこの行為が恥ずかしい。

 手を繋いで二人で水槽を見て回る。水族館のメインの巨大水槽に二人は見入った。

「綺麗……」
『そうだな。俺も水族館なんて久しぶりだ。たまにはいいもんだな』

莉央と俊哉の隣には小さな男の子と女の子が並び、兄と妹と思われる彼らも無邪気な顔で笑っていた。

『なぁ莉央。水槽で飼われてる魚と海にいる魚、どっちが幸せだと思う?』
「どっちって……」
『こうやって水族館にいる魚は餌はもらえるが、泳ぐ世界は水槽の中だけ。そこから先には行けない。水槽の外には出られない。野生に生きる海の魚はどこまでも自由に海を泳ぎ回れるが、海の世界も弱肉強食。餌も自分で探すしかない。餌の獲得か自由の獲得か、どちらが幸せなんだろうな』

 俊哉の端整な横顔がゆらゆら揺らめく青い光に照らされている。莉央は何も言えずに俊哉の哀しげな横顔を見つめた。

財閥の息子としての重責が俊哉にはある。この質問の意味はきっと俊哉の人生そのものなのだろうと莉央は自分なりに解釈した。

 それからはイルカとペンギンのショーを堪能し、館内の復路を辿る莉央は土産物売り場で足を止めた。ピンク色のイルカのマスコットがついたビーズの携帯ストラップを手に取る。

『それが欲しいのか?』
「えっと……」
『他に欲しい物は?』

俊哉に聞かれて莉央は首を左右に振る。彼は莉央からストラップを取り上げてレジで会計を済ませた。

『ほらよ』
「ありがとうございます」

俊哉から渡された小さな袋を胸の前でぎゅっと抱える。俊哉にストラップを買ってもらえたそれだけのことがとても嬉しい。

『そんなものでご機嫌になるなんてやっぱりガキだなぁ』

 また俊哉に子供扱いされたが、嬉しいものは嬉しい。

 ずっとこのまま何事もなく父や俊哉と笑い合う日々が続いて欲しいと願った。だが莉央の願いも虚しく幸せは長くは続かない。

莉央の人生の崩壊の時が迫ってきていた。
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