早河シリーズ第三幕【堕天使】
 高校一年生の夏休み。莉央の父、祥一は心臓の持病が悪化して光が丘病院に入院した。

『祥一様。少し仕事の量を減らされた方が。無理をするから心臓に負担がかかるんです』

 光が丘病院の医師で祥一の主治医の永山佐千朗は脈拍と血圧を確認した。彼はベッドの傍らに付き添う莉央に目を向ける。

『お嬢様のためにも祥一様にはまだまだ長生きしてもらわなければ』
『当たり前だ。莉央が私の孫を産むのを見届けるまでは死ぬつもりはない』
「もうお父様。まだ結婚もしていないのに孫の話なんて……」

困り顔の莉央を見て祥一が快活に笑う。

『もちろんまだ嫁にやる気はないさ』
「私はどこにも行かないよ。お父様のいる所が私の居場所だもの」

莉央はベッドに寝そべる祥一の胸元に寄り添って微笑んだ。

 二人の世界に浸る父と娘を残して永山医師は病室を去る。彼に与えられている部長室に戻ると、祥一の妻の雅子がソファーに座っていた。

『祥一様のお嬢様への溺愛振りは相変わらずですね。目の中に入れても痛くないとはまさにあのことですよ』
「溺愛にもほどがある。何かと言えば莉央、莉央、莉央。うんざりよ」

雅子は溜息をついて脚を組む。還暦を迎えたとは思えない雅子の若々しい脚が永山の視界にちらついた。

「あの人、そのうち莉央に樋口コーポレーションを継がせると言い出しかねないわね」
『まさか、それはないでしょう。いくらお嬢様を溺愛していても妾の子。すでに樋口コーポレーションの跡継ぎは宏伸様に決まっているではありませんか』

永山は苦笑するが雅子はにこりとも笑わなかった。

「いいえ。あの人なら宏伸を追い出して莉央を跡継ぎにすることはどうってことないのよ。あの人は私が産んだ子よりも、あの女との子供の方が大事なのよ。会社と財産まで莉央に持っていかれるなんて冗談じゃないっ!」
『まぁまぁ奥様、落ち着いて。まだお嬢様が跡継ぎになると決まったわけではないんですから』

憤慨する雅子を永山はなだめる。雅子は隣に座る彼の身体に腕を絡めて抱き付いた。

「二人だけの時は奥様とは呼ばないでと言ったでしょう?」
『そうだったね。雅子』
「それで? あの人はいつまでもつの?」
『一昨年に手術をした部分がまた痛み始めているが、当面は薬を服用していればすぐに命の危険という事はない』
「そう。“薬を服用していれば”ね」

 赤い唇を斜めにして微笑むこの時の雅子が永山は少しだけ怖くなった。

 崩壊の予兆は静かにゆっくりと莉央の背後に忍び寄る。

 2000年11月6日、樋口祥一がこの世を去った。享年64。早すぎる死に彼を慕う者達は嘆き悲しんだ。

そして樋口祥一の死によって全ての歯車が狂い始めた。
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