早河シリーズ第三幕【堕天使】
3月23日(Mon)

 渋谷区松濤の樋口邸には鬱々とした空気が流れていた。この屋敷でメイドとして働く杉田奈々は黙々と夕食の片付けを行っていた。

ここにいる樋口家の人間はもう次男の俊哉しかいない。主を亡くした使用人達は続々と退職を願い出て、使用人の数も半分に減った。

「この家もうダメかもね。新しい就職先探さないと。私も今月いっぱいで辞めようかな。奈々ちゃんも早く転職先探した方がいいよ」
「そうですね……」

先輩メイドの言葉に奈々は曖昧に頷いた。先輩メイドに対して表向きは肯定の言葉を口にしても奈々は樋口家のメイドを辞める気はなかった。
俊哉の側を離れるなんて考えられない。

 俊哉には妻子がいて他にも複数の愛人がいる。彼は財閥を背負う身、自分は一介の使用人。
俊哉にとっては自分との関係も戯《たわむ》れの遊びに過ぎないと奈々もわかっていた。

それでも俊哉の側にいたいと思うのは彼を本気で愛しているから。樋口財閥や樋口コーポレーションがこの先どうなっても、奈々は俊哉についていこうと決めていた。

 俊哉の洗濯物を持って奈々は三階の彼の部屋を訪ねた。ノックをしても返事がなく、部屋には明かりがついていたが俊哉はいなかった。

(俊哉様どこに行かれたんだろう。お風呂はさっき入られていたし……)

 洗濯物を俊哉の部屋に置いて廊下に出る。彼を捜しに廊下を進んだ彼女はとある部屋の扉がわずかに空いていることに気付いた。

 確かあの部屋は空き部屋で普段は施錠されて立ち入り禁止だった。掃除は家政婦長が担当していて奈々は一度もあの部屋に入った経験がない。

普段は鍵がかかっていて入れない部屋の扉が開いている。心に生まれたそれはちょっとした好奇心だった。

 ドアノブをひねると長年開閉されていないせいで嫌な音を立てて戸が軋む。部屋は暗く、奈々は電気をつけようと手探りでスイッチを探した。
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