早河シリーズ第三幕【堕天使】
『誰だ?』
突然男の声がして驚いた奈々は肩を跳ねさせた。暗かった視界が急に明るくなって眩しさに目を細める。
『なんだ、奈々か』
「俊哉様……?」
俊哉がすぐ側に立っていた。奈々はすぐさま彼に頭を下げる。
「あの、勝手に入ってしまい申し訳ありません! この部屋は空き部屋だと聞いていたので扉が開いているのは変だなと思って、それで……」
『いいよ。わかったから。座れよ』
俊哉は古びたソファーに腰かけて奈々を呼んだ。奈々は素直に従い、彼の隣におずおずと座る。
『俺に妹がいるって奈々は知ってたか?』
「いいえ。妹さんのことは警察の人から聞かされて初めて知りました。使用人仲間の誰からも妹さんの話は聞いたこともなくて」
『今いる使用人は妹が家出してから雇った奴らだ。妹のことを知ってるのはもう家政婦長の婆さんだけか』
俊哉の手のひらには銀色の指輪が転がっている。銀の花が連なった指輪は艶を失ってくすんだ色をしていた。
「その指輪は……?」
『昔、妹に買ってやったもの。この部屋は妹の部屋だったんだ。家出する7年前までアイツはここにいた』
広々とした部屋には二人掛けの古びたソファーと骨組みだけになったベッドが置かれている他は何もない。がらんとした寂しい部屋だった。
「雅子様や宏伸様を殺した犯人が妹さんではないかと噂になっています。でも違いますよね? 妹さんがそんなこと……」
『いや、アイツならやるだろうな。それに多分アイツが……莉央が一番憎んで殺したいと思ってるのは俺だろうから』
“莉央”、それが俊哉の妹の名であることは奈々は刑事から聞いて知っている。
何故だろう。俊哉はただ妹の名を口にしただけなのに彼が“莉央”と呟いた瞬間に奈々の心はざわついた。
一言呟いた妹の名前に込められた俊哉の感情に気付いてしまった。そして彼の妹に芽生えた嫉妬の感情に奈々は戸惑う。
「……どうして妹さんが俊哉様を憎んでいるんですか?」
そこから先を知ってはいけない気がした。知りたいのに知ってはいけない。もし知れば自分はきっと正気ではいられない。
7年前までこの部屋で俊哉と妹の莉央は奈々の知らない時間を過ごしていた。絶対に踏み込んではいけない、何かの余韻がこの部屋には漂っている。
『奈々は兄貴はいる?』
「兄はいません。妹と弟なら……。私は長女なんです」
『そっか。俺はさ、莉央の兄貴にはなれなかったんだ。“お兄ちゃん”でいようとした時期もあったんだけどな。いい兄貴にはなれなかった』
俊哉は虚ろな目で銀色の指輪を見ている。兄が妹にプレゼントを贈ることは不思議ではない。仲の良い兄妹ならアクセサリーだって贈るだろう。
だけどそれは本当にただの指輪? 指輪を見る彼の視線にどうしてこんなに胸がざわつく?
俊哉の目の下にはクマがあり、頬も痩けてしまっている。指輪を見下ろす悲しそうな顔を見ていられなくて、奈々は俊哉の頭を胸元に抱き抱えた。
「私がお側にいます。ずっと俊哉様のお側にいますから……」
この恋は麻薬だ。一度味わってしまえば中毒になって抜け出せなくなる、禁断の果実。
奈々の服のボタンが外されて、はだけた胸元に俊哉が吸い付いた。奈々は彼にされるがまま、俊哉をぎゅっと抱き締める。
もうこの人無しでは生きられないと彼女は本気でそう思っていた。
突然男の声がして驚いた奈々は肩を跳ねさせた。暗かった視界が急に明るくなって眩しさに目を細める。
『なんだ、奈々か』
「俊哉様……?」
俊哉がすぐ側に立っていた。奈々はすぐさま彼に頭を下げる。
「あの、勝手に入ってしまい申し訳ありません! この部屋は空き部屋だと聞いていたので扉が開いているのは変だなと思って、それで……」
『いいよ。わかったから。座れよ』
俊哉は古びたソファーに腰かけて奈々を呼んだ。奈々は素直に従い、彼の隣におずおずと座る。
『俺に妹がいるって奈々は知ってたか?』
「いいえ。妹さんのことは警察の人から聞かされて初めて知りました。使用人仲間の誰からも妹さんの話は聞いたこともなくて」
『今いる使用人は妹が家出してから雇った奴らだ。妹のことを知ってるのはもう家政婦長の婆さんだけか』
俊哉の手のひらには銀色の指輪が転がっている。銀の花が連なった指輪は艶を失ってくすんだ色をしていた。
「その指輪は……?」
『昔、妹に買ってやったもの。この部屋は妹の部屋だったんだ。家出する7年前までアイツはここにいた』
広々とした部屋には二人掛けの古びたソファーと骨組みだけになったベッドが置かれている他は何もない。がらんとした寂しい部屋だった。
「雅子様や宏伸様を殺した犯人が妹さんではないかと噂になっています。でも違いますよね? 妹さんがそんなこと……」
『いや、アイツならやるだろうな。それに多分アイツが……莉央が一番憎んで殺したいと思ってるのは俺だろうから』
“莉央”、それが俊哉の妹の名であることは奈々は刑事から聞いて知っている。
何故だろう。俊哉はただ妹の名を口にしただけなのに彼が“莉央”と呟いた瞬間に奈々の心はざわついた。
一言呟いた妹の名前に込められた俊哉の感情に気付いてしまった。そして彼の妹に芽生えた嫉妬の感情に奈々は戸惑う。
「……どうして妹さんが俊哉様を憎んでいるんですか?」
そこから先を知ってはいけない気がした。知りたいのに知ってはいけない。もし知れば自分はきっと正気ではいられない。
7年前までこの部屋で俊哉と妹の莉央は奈々の知らない時間を過ごしていた。絶対に踏み込んではいけない、何かの余韻がこの部屋には漂っている。
『奈々は兄貴はいる?』
「兄はいません。妹と弟なら……。私は長女なんです」
『そっか。俺はさ、莉央の兄貴にはなれなかったんだ。“お兄ちゃん”でいようとした時期もあったんだけどな。いい兄貴にはなれなかった』
俊哉は虚ろな目で銀色の指輪を見ている。兄が妹にプレゼントを贈ることは不思議ではない。仲の良い兄妹ならアクセサリーだって贈るだろう。
だけどそれは本当にただの指輪? 指輪を見る彼の視線にどうしてこんなに胸がざわつく?
俊哉の目の下にはクマがあり、頬も痩けてしまっている。指輪を見下ろす悲しそうな顔を見ていられなくて、奈々は俊哉の頭を胸元に抱き抱えた。
「私がお側にいます。ずっと俊哉様のお側にいますから……」
この恋は麻薬だ。一度味わってしまえば中毒になって抜け出せなくなる、禁断の果実。
奈々の服のボタンが外されて、はだけた胸元に俊哉が吸い付いた。奈々は彼にされるがまま、俊哉をぎゅっと抱き締める。
もうこの人無しでは生きられないと彼女は本気でそう思っていた。