早河シリーズ第三幕【堕天使】
 階段を上がった莉央は三階の自分の部屋の前で足を止めた。莉央の部屋の前に腹違いの兄、樋口俊哉がいた。彼は部屋の扉にもたれかかっている。

『どこ行ってた?』

俊哉の仏頂面な表情は怒っているとも機嫌が悪いともとれる。酔っているようで彼の顔は赤らんでいた。

「友達と出掛けていました」
『男か?』
「いえ。学校の友達です」
『ふーん。ま、いいや。どうせお前はパーティーには参加できないからな。どこほっつき歩いても俺は何も言わねぇよ』

 彼は当たり前な顔で扉を開けた莉央の部屋に先に入った。後に続いた莉央が扉を閉める。主のいなかった部屋の空気は冷えていた。

「お兄さんはパーティーに出なくていいんですか? 下ではまだ続いていますよね」
『俺はもう自分の役割は終えた。後は母さんと兄貴が上手くやるだろ』

部屋のソファーで俊哉は額に手を当てて横になっている。彼はあまり酒に強くない。気分が悪いのかもしれない。

「お風呂入ってきます」
『ああ。暖まって来いよ』

 着替えを持って莉央は浴室に向かった。部屋に残してきた俊哉の様子が気がかりだ。

 子供の莉央には今の樋口コーポレーションの現状はわからない。祥一の死後、雅子が会長となり長男の宏伸が社長、次男の俊哉は副社長に就任した。
副社長の役職が具体的にどのようなものかも莉央は知らない。

(次男で副社長って色々大変なのかも)

 俊哉の体調や精神面の心配をしている自分をおかしく思う。
忘れもしない1ヶ月前の父の葬儀の夜。あんなことをされた後なのに、まだ俊哉に対して信頼や安心感を抱く自分はどうかしている。

(あんな最低な人、嫌いなのに。大嫌いなのに)

 冷えた身体を風呂で暖め、自室に戻った。
暖房がほどよく効いた部屋ではソファーに寝そべる俊哉がいた。

彼は莉央が戻ってきても身動ぎひとつしない。緩めたネクタイが垂れた胸元が寝息と共に上下していた。

「どうしよう……寝てる」

自分の使っているブランケットを眠る俊哉の身体にかけてソファーの傍らに座った。俊哉の顔がすぐ近くに見える。

 彼は12歳年の離れた腹違いの兄。初めてこの家に来た時、俊哉だけが莉央に優しくしてくれた。多忙な父に代わって俊哉が莉央の世話を焼き、兄と妹として仲良くできていると思っていた。
1ヶ月前のあの日までは。

 ──“子供扱いはもう終わりにしてやるよ”──

俊哉のあの言葉が絶望の日々の始まりだ。あの日から莉央に兄はいなくなった。
信頼していた兄は妹に女を求める醜い男に変わってしまった。もうあの頃には戻れない。

 嫌い、嫌い、最低。心の中では何度も呟いているその言葉をいざ俊哉を前にすると言えなくなる。嫌いなのに離れられない。
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