早河シリーズ第三幕【堕天使】
 数分してコートを羽織った俊哉が階段を降りて来た。彼は見送りのトメに夕方までには帰ると告げて莉央を連れて樋口邸を出る。

樋口邸の車庫に向かい、莉央は何度も乗っている俊哉の車の助手席に乗った。

『小学生の頃に親父が俺だけを連れて来てくれた場所があるんだ』
「お兄さんだけを?」
『ああ。昔から樋口の跡取りは兄貴って周りから決まり文句のように言われて、俺はいつも二番手扱い。まぁそういう扱いも今は慣れたけど、昔はけっこう拗ねてた時期もあったんだよな。俺は樋口の家には必要ない人間なんだろうなーって』

今でこそ笑い話で語る俊哉も昔は鬱憤とした想いが溜まっていたのかもしれない。

『そんな時に親父がここに連れて来てくれて。宏伸には秘密だぞ、なんて言って。別に遊園地でもないし楽しいものなんか何もない寂れた神社なんだけどな』

 都内を駆けていた俊哉の車が駐車場に停車した。砂利の駐車場を抜けると石段の上に赤い鳥居が見える。

元旦の今日はどこの神社も参拝客で賑わっているかと思えばここの神社は少し様子が違う。神社の周りには人の気配もなく、しんと静まり返っていた。

 先に石段を上がっていた俊哉は草履を履く莉央の危なっかしい足元を見て駆け降りて来た。俊哉が莉央の手を握る。

『嫌なら離してもいいけど』

白い息を吐く俊哉は灰色の石段に視線を落とす。莉央は答える代わりに繋がれた俊哉の手に指を絡ませた。

莉央の歩調に合わせて一段ずつ石段を登り、息切れした二人を出迎えたのは寒空を流れる静寂な空気。境内には俊哉と莉央以外は誰もいない。

『古くて寂れてるけどいい場所だろ?』
「うん。空気が澄んでいて気持ちがいい」

 莉央の微笑に俊哉の鼓動が速くなる。手水舎《ちょうずや》で手水をとる莉央の横顔を見つめて俊哉は途方に暮れた。

(腹違いとは言え、妹に恋するとは我ながらバカな男だよな)

 神前に進み、賽銭を投げ入れて拝礼する。

 このどうしようもなく穢《けが》れた心は神聖な場を訪れても浄められることはない。
参拝をしても神に願うことは何もない。あるのは懺悔か、後悔か。

『何を願ってた?』
「内緒です」

ひらりと着物の袖を翻して莉央は俊哉に背を向けた。彼女は境内に咲く寒椿に吸い寄せられる。

「お父様はこの場所に何か思い出があったのかな?」
『俺もよくは知らないけど、ひとりになりたい時はここに来るんだって言ってた。誰も知らない俺だけの秘密基地だからひとりになりたい時はここに隠れるんだと。そういう子供っぽいとこがあった人だからなぁ』
「ふふっ。お父様は古くて静かな場所が好きだったものね」

 境内にひっそりと植えられた寒椿が赤い花を咲かせて灰色の神社を彩っている。俊哉には紅色の着物を着た莉央自身が赤く咲き誇る椿の花に見えた。
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