公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚

01 悲劇の公女

 バイエルン王国、王都ミュンヘン郊外。

 シュタルンベルク湖の(ほとり)に佇むバイエルン公爵が所有するポッセンホーフェン城は、久々の来客に賑わいを見せていた。
 不仲で知られる公爵夫妻も、今日ばかりは揃い、豪華な晩餐の準備が整っていた。
 だが、その喧騒の中で、ヘレーネは心ここにあらずといった様子で、窓辺に佇んでいる。

 秋の冷たい空気が彼女の肩を撫で、微かな震えが体を走る。
 夕焼けに染まる空を見つめる彼女の心は、あの日の記憶に囚われていた。

 オーストリア帝国の若き皇帝、フランツ・ヨーゼフとの見合い──その瞳に映ったのは自分ではなく、妹エリーザベトだった。
 妹の自由奔放さが、厳格な規律で育った青年皇帝の心を掴んだのだ。

 見合い相手から公然と振られたという事実は、ヘレーネの王族の姫(プリンツェシン)としての体面を深く傷つけた。
 欧州中の王室に嫁ぎ先を打診しても、彼女に応える家はどこにもなかった。
 22歳になり適齢期を過ぎた身。
 これから先、静かな余生を送るしかない──そう覚悟していた。

「ヘレーネ公女、こちらにおいででしたか」

 懐かしい声が背後から響いた。
 振り返ると、そこにはトゥルン・ウント・タクシス家の侯世子《エルププリンツ》、マクシミリアン・アントンが立っていた。

 彼の赤金色の髪は、黄昏の光を受けてまるで炎のように揺らめいていた。
 その凛とした姿に、ヘレーネは幼少期の楽しかった日々が蘇るが、同時に痛みをもたらした。
 思春期を迎えてから、彼はまるで氷をまとったかのように冷ややかに、距離を置いてきたのだから。

 だが、今の彼の翠緑の瞳には、これまでの冷たさとは違う、何か別の決意が宿っているように見えた。

「アントン侯世子……」

 アントンはヘレーネに真っすぐに歩み寄り、深く息を吸い込んでから口を開く。
 その瞳の奥に、隠しきれない緊張が浮かんでいる。

「……バイエルン公爵に、貴女との結婚の許可をいただきました」

 アントンの言葉に、ヘレーネの体は固まった。
 嫁ぎ先の宛てがない令嬢にとって、名門と名高いトゥルン・ウント・タクシス侯爵家の世継ぎとの縁談は、まさに願ってもないほどの魅力的な提案だ。
 だが、彼女の胸に広がったのは喜びではなく、戸惑いだった。

「ヘレーネ公女、貴女の了承をいただきたい」

 アントンは落ち着いた声で告げた。
  欧州随一の富豪とも言われるトゥルン・ウント・タクシス家ならば、花嫁候補は選び放題だ。
 彼が本当に自分を望んでいるというのが信じられない。

「……どうして?」

 喉の奥から搾り出すように問いかけた。
 アントンは少し目を伏せ、再びヘレーネを見つめると力強く答えた。

「かねてより貴女をお慕いしております」

 アントンの声は力強く、情熱が込められていた。
 だが、ヘレーネの心は冷静だった。

(嘘よ。そんなはずはない。)

 ヘレーネは心の中で呟いた。
 彼の言葉は甘く優しいが、それを鵜呑みにして心を開くほど、無防備ではない。

 王族と貴族の婚姻は滅多に起こらない。
 だが、傷物となった公爵令嬢ならば、侯爵家でも娶ることができると考えたのではないか。
 妹のエリーザベトがオーストリア皇妃となった今、姉と結婚すれば、オーストリア皇帝の姻戚という地位を得る。
 その計算が働いたに違いない。

 だが、慕っていると宣うアントンは、形だけでも愛情を示そうとしている。
 不仲な両親を見ていると、例え計算ずくの婚姻でも、愛情を示そうと努力する相手ならば、救いがあるように思えた。

 晩餐会は(つつが)なく終わった。
 すでに、求婚者は公爵夫妻の信頼を得ているようだ。
 訪問は頻繁になり、いつしか両親の間に座るアントンの席は、ヘレーネの隣に用意されるようになった。

 やがて、両親の期待に背中を押される形で、ヘレーネはアントンの求婚に頷いた。
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