公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚

10 黄昏の画廊

 ヘレーネとアントンの生活は、穏やかで幸せに満ちていた。
 待望の跡取り息子、マクシミリアンが生まれ、家族は喜びと安堵に包まれた。
 幼い息子が猩紅熱にかかったときも、無事に回復し、平和で幸福な日々が続いていた。

 しかし、そんな幸せな日々を、悲劇が襲う。

 アントンが体の異変を訴え始めたのは、ヘレーネが第四子の胎動を感じ始めた頃だった。
 最初はただの疲労だと考えていたが、数週間が過ぎるにつれ、彼の体調は次第に悪化していく。
 手足はむくみ、顔色は青白くなり、ついには食欲を失い、夜になると息苦しさで何度も目を覚ますようになった。

 ヘレーネはすぐに医師を呼んだが、診断結果は絶望的だった。
 アントンは腎臓病を患っており、水分制限や薬草療法で症状を緩和することはできても、根本的な治療法が存在しなかった。

 日に日にアントンの体は弱っていき、やがて彼の意識も朦朧とし始めた。

 ベッドに横たわるアントンは、かすかな意識の中でふと目を開け、ベッドの傍の椅子に座るヘレーネを見た。
 彼女は看病疲れからか、ベッドに突っ伏して眠っていたが、その手はしっかりとアントンの手を握っていた。

 彼女のぬくもりが伝わり、アントンはたまらなく幸せだと感じた。彼の脳裏に、初めてヘレーネを見た日の記憶が鮮やかに甦った──。


 その日、アントンが“美人画廊”に足を運んだのは、祖母の隠し子の肖像がそこに飾られていると聞いたからだ。

 トゥルン・ウント・タクシス家の跡継ぎである父マクシミリアン・カールが、異国の男爵令嬢ヴィルヘルミーネと恋に落ち、結婚を望んだとき、祖母は猛反対した。
 しかし、祖父の急死により家長となったマクシミリアン・カールは、愛するヴィルヘルミーネとの結婚を強行した。

 その結婚は、王族の血を引く祖母にとって、到底受け入れ難いものだった。
 身分が低く、赤みを帯びた髪のヴィルヘルミーネとその子供たちを、祖母は卑しく穢らわしいものとして、まるで存在しないかのように扱った。
 ヴィルヘルミーネはやがて体調を崩し、7年という短い結婚生活の幕を閉じた。

 祖母は母の喪が明けると、愛妻の死に弱っていた父に後妻をあてがった。
 エッティンゲン=シュピールベルク侯女マティルデ・ゾフィーは王族に次ぐ地位をもつ最上級貴族家門(シュタンデスヘル)の令嬢で侯爵家当主に相応しい花嫁だった。
 父親とマティルデ・ゾフィーとの挙式を見守った祖母は満足し、ひと月後にこの世を旅立っていった。 

 後妻は、美丈夫の父に夢中になり、次々と子供をもうけた。
 アントンの居場所は、祖母の策略によって次第に失われていくように感じられた。

 祖母に隠し子がいることを知ったとき、アントンの胸には言いようのない憎悪が湧き上がった。卑しく穢らわしいのはどちらだ!?
 祖母が不義の子を身籠ったという事実は、彼の心に深い怒りを呼び起こした。

 隠し子──父の異父妹となる叔母は、外交官と結婚し帝政ロシアに移り住んでいたが、彼女の肖像画がバイエルンの王宮に飾られていることを耳にした。
 美貌に恵まれた叔母は、バイエルン国王ルートヴィッヒ一世の目に留まり、絵画のモデルに選ばれたという。
 女好きで知られる国王は、部屋の壁を美しい女性の肖像で埋め尽くした“美人画廊”を所有していた。

 西陽が廊下を燃えるように照らす中、画廊の重厚な扉を押し開けると、アントンはその場に立ち止まった。
 そこには、既に先客がいたのだ。
 
 目の前には、波打つ黒髪を優雅に揺らしながら、ひとりの少女が肖像画を見つめていた。
 人の気配に振り返った少女は、驚いたように瞳を見開いた。初めて見るアントンに警戒の色が浮かんだように思えた。
 不義の子の顔を拝んでやる──そう意気込んでいたアントンだったが、思わぬ少女の存在に、狼狽えてしまった。

「……叔母の絵だけ見せてください。見終わったらすぐに退室します。」

 アントンはさっさと嫌なことは終わらせて、帰ろうと考えた。
 少女は少し驚いた様子で立ち止まり、向き直ると、柔らかく微笑んで答えた。

「まぁ、叔母様がモデルをなさっていたのね……」

 少女の視線はアントンの赤金色の髪に移り、その表情は好奇心に変わっていった。

「……叔母様も赤毛なの?」

 無邪気な問いかけに、アントンは息を詰まらせた。
 長年抱えてきた赤い髪への複雑な思いが、不意に浮かび上がる。
 思わず視線を逸らし、抑えた声で答えた。

「いいえ、赤毛なんかじゃありませんよ」

 自嘲気味に苦笑を浮かべ、アントンはそう呟いた。

「そうなの……残念ね、赤毛の美人画を見てみたかったわ」

 その一言に、アントンの心臓は大きく跳ね上がった。
 彼の赤毛は、祖母や周囲から『忌まわしい血の色』として扱われ続けてきた。
 しかし、彼女の目には、まるで違う何かとして映っているようだった。

「……本当に?」

 アントンは信じられず、問い返した。自分の声に、かすかな弱さが滲んでいた。

 少女はためらうことなく頷き、緑がかった琥珀色の瞳でまっすぐに彼を見つめた。
 その澄んだ瞳の中には、曇りのない純粋な感情が満ちていた。

「……あなたの髪、まるで夕陽のような綺麗な色だもの。きっと、赤毛の美人画も素敵だと思うわ」

 そして少女は、花の蕾が綻びるようにふわりと笑った。
 向けられた笑顔に、アントンの思考回路は完全に停止してしまった。
 彼の中で、今まで感じたことのない感情が芽生え始めた瞬間だった。
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