公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚

07 楽園の鳥

 燦々と降り注ぐ太陽の光が、強い。
 バイエルンでは天候が気まぐれで、曇り空や雨がしばしば訪れるが、ここは別世界だった。
 雲一つない澄み渡る空が、アドリア海の深い青と溶け合い、水平線の彼方まで続いている。
 潮の香りを含んだ風が肌を撫で、砂浜に押し寄せる波音が響いていた。

 アドリア海の最奥部に位置するトリエステの港は、オーストリア帝国の重要な貿易拠点である。
 帝国が誇る軍艦、グライフ号がトリエステ港に停泊していた。
 黒い船体は威厳を漂わせ、白く塗られた上部構造が優雅で清廉な印象を与えている。
 その堂々たる姿は、その名の通り翼を広げた翼獅子《グライフ》のようだった。

 ヘレーネは軍艦を見上げ、ぽつりと呟く。
「軍艦に乗るなんて、まるで戦場に行くみたいね……」
「どうか無事に帰ってきてくれ。娘たちも待っている……」
 隣に立つアントンが心配そうに彼女を見つめていた。
 彼の声には、愛する妻を見送る寂しさと不安が滲んでいた。

 ヘレーネは、愛する夫アントンと幼い娘たち──よちよち歩き始めたルイーザと、生まれて二ヶ月のエリーザベトを残して、何ヶ月かかるか分からない長い旅に出なければならない。
 皇帝の命令により、コルフ島にいる妹エリーザベトをウィーンに連れ戻すことが彼女の任務だった。

 軍艦の上では、乗組員たちが出航の準備を進めていた。

 アントンはそれ以上何も言わず、ただ静かにヘレーネを見つめている。
 その静けさが、ヘレーネの心を少しだけ安らげてくれるように感じた。
 だが、別れの時はすぐに訪れる。

 グライフ号の甲板へと足を踏み入れたヘレーネを、敬礼する乗組員たちが丁重に迎え入れた。

 船がゆっくりと動き出し、トリエステの町並みが徐々に遠ざかっていく。
 ヘレーネは甲板に立ち続け、遠ざかるアントンの姿を最後まで見つめていた。
 彼は港に佇み、じっと妻を見送っている。
 その姿が次第に小さくなり、やがて町並みと共に波間に消えていった。


 航海は順調に進み、地中海東部、イオニア海に浮かぶコルフ島が見えてきたのは3日後のことだった。岸辺ではエリーザベトが大きく手を振り待ち構えていた。
 軍艦が着岸すると、エリーザベトは感極まったように叫び、両腕を広げた。
 ヘレーネは舷梯(げんてい)を駆け降り、二人はお互いを強く抱きしめあった。

「ネネ! 来てくれて嬉しいわ!」
「シシィ! 私も会いたかった……」

 姉妹は互いの愛称で呼び合いながら、再会の喜びを心から噛みしめた。
 ヘレーネはエリーザベトの顔をじっくりと見つめ、健康状態を確認するようにその様子を伺った。
 かつてふっくらとしていた妹の頬は、今ではほっそりとこけ、全体的に痩せていた。
 それでも、彼女の目には活力が漲っている。

「シシィ、元気そうね」
「ええ、ここの空気は私にぴったりよ。自由で、何にも縛られないのが最高なの」

 エリーザベトは晴れやかな笑顔で応じ、二人は力強い潮風と鳥の囀りに包まれたコルフ島の庭園を歩き始めた。
 妹の元気な様子に、ヘレーネは安堵し、久しぶりに肩の力を抜いて語り合える時間を楽しんだ。
 だが、その平和な時間も長くは続かなかった。

 エリーザベトの笑顔が次第に曇り、まるで静かな海に突然波が立つかのように、彼女の表情にかすかな陰りが差し始めた。

「ネネ……私をウィーンに連れ戻しに来たんでしょう?」

 エリーザベトは低い声で問いかけた。
 突然の言葉に、ヘレーネは足を止めた。
 エリーザベトの目には疑念が浮かび、猜疑心がその瞳を曇らせていた。
 心からの喜びに満ちていた笑顔は消え、宮廷で培われた苦しみが、彼女の内面を覆っているのがはっきりとわかった。

「前にウィーンから派遣されてきた伯爵と大喧嘩して追い返したのよ。頭に湯気を立てて、ぷんぷん怒って帰る姿を思い出すと、滑稽で今でも笑えるわ」

 エリーザベトは、無理に作った笑いを浮かべ、まるで防御するかのように釘をさすような言葉を放った。
 妹の笑いの裏に隠れた苛立ちと不安が、ヘレーネには手に取るようにわかった。

 ウィーン宮廷の厳しさは誰もが知るところだが、妹がここまで追い詰められているとは想像以上だった。
 エリーザベトの心にのしかかる重荷は、目に見えぬほど深く、容赦ないものであることを改めて知る。

「シシィ、確かに皇帝陛下から頼まれて来たわ。でも、無理強いはしない。ウィーンに戻るかどうかは、あなた自身の意思で決めていいのよ」

 コルフ島行くという皇帝の命令を断ることは、ヘレーネの立場なら不可能ではない。
 だが、彼女はそれを選ばなかった。
 日々成長する娘たちと共に過ごす喜びを犠牲にしてまで、長い旅に出た。
 それは、幼い頃から守り続けてきた大切な妹を助けたいという切なる思いからだった。

 エリーザベトは、その言葉を聞くとしばらく黙り込み、思い詰めたような表情を浮かべた。
 彼女の心の中で何かが揺れ動いているのが、その沈黙からはっきりと感じ取れた。
 そして、ついに躊躇いがちに口を開いた。

「私は……もうウィーン宮廷には戻れない気がするの……」

 その一言に、ヘレーネの胸は締めつけられた。
 エリーザベトの言葉には、深い絶望と、自由を失うことへの恐れがにじんでいた。
 彼女の瞳にはまだ、宮廷生活への未練や、自分の居場所を失うかもしれないという不安が渦巻いていた。

 ヘレーネは、何も言わずに妹の手をぎゅっと握りしめた。
 彼女の心に寄り添うように、その手を強く握り続けた。
 エリーザベトは少しだけ安堵の表情を見せたものの、その瞳の奥にはまだ葛藤が潜んでいる。

 この旅は、ただの説得では終わらない。
 単なる説得ではなく、エリーザベトが本当に望むものを見つけ出し、彼女が新たな道を選べるように全力を尽くす必要がある──ヘレーネはそう強く感じた。
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