公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚

09 家族の絆

 ウィーンに戻ったヘレーネは、フランツ・ヨーゼフに面会し、エリーザベトの苦しみを丁寧に伝えた。
 窮屈な宮廷生活、女官長への不満、夫の多忙による孤独感、そして何よりも、母親として子供を引き離されたことが、どれほどエリーザベトに苦痛を与えているかを真摯に訴えた。

「皇妃には、もう一度お子様方との絆を取り戻す機会が必要です。母としての自信を取り戻すためにも、どうかできる限り長く親子で一緒に過ごせるようお取り計らいください。きっと、皇妃の心に大きな安らぎをもたらすはずです。」

 フランツ・ヨーゼフはしばらく考え込んだ。
 彼の眉はわずかにしかめられ、重い沈黙が二人の間に流れた。やがて、深く息をつき、静かに頷いた。

「わかった、ヘレーネ。シシィにとって何が最善か、もう一度考え直してみる。彼女がもっと自由に子供たちと過ごせるよう、何らかの対策を講じよう。」

 その言葉を聞き、ヘレーネの心の中に安堵の感情が広がる。
 しかし、彼女にはまだ伝えなければならないことがあった。
 慎重に言葉を選びながら、再び口を開いた。

「陛下……宮廷は些細な秘密も(つまび)らかになるものです。妹は、陛下の深い愛情に包まれているはずですが……その愛が少し揺らいでいるのではないかと感じております。どうか、もう一度、皇妃が陛下のご寵愛を信じられるように、お取り計らいください。」

 フランツ・ヨーゼフはその言葉に反応し、体をわずかに硬直させた。
 彼女が何を暗示しているかを彼はすぐに悟り、再び思案に沈んだ。

「私はこの国の皇帝として、多くの重責を担っている。宮廷や国のために私の時間が奪われるのは避けられないが……具体的にどうすればよいのだ?」
「どうか、ウィーンを離れ、静かな場所で妹と過ごす時間をお作りくださいませんか?」

 ヘレーネの提案にフランツ・ヨーゼフは少し驚いた表情を見せ、迷いが浮かんでいた。
 しかし、彼女の言葉が彼の心に何かを動かしたのは明らかだった。

「……考えてみよう、ヘレーネ。もう少し様子を見てから判断しよう。」

 彼の言葉に、ヘレーネは静かに頷いた。
 彼の答えには誠意が感じられたが、まだどこか迷いが残っている。しかし、確かな手応えが感じられた。

 長い謁見を終えたヘレーネが、フランツ・ヨーゼフの前から退くと、白髪の老女──リヒテンシュタイン=エステルハーツィ女官長が静かに近づき、告げる。

「ヘレーネ候世子夫人、ご夫君様が大公妃殿下のお部屋でお待ちです。」

 その知らせに、ヘレーネは驚いたが、すぐに心が弾んだ。
 長い間、離れていた夫アントンと再会できる喜びが、胸の中に広がった。

 女官長の鋭い目つきに、矍鑠(かくしゃく)とした姿勢から、ハプスブルク家への揺るぎない忠誠心が感じ取れた。
 ヘレーネはその忠義に感謝しつつも、妹との複雑な関係が心に交錯していた。

 ゾフィー大公妃の部屋に入ると、すぐにアントンと目が合った。夫は少し痩せたように見えたが、相変わらず優しい笑顔を浮かべていた。その笑顔に、ヘレーネは思わず駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。アントンは、優しく彼女を抱きしめた。

「久しぶりだね、ヘレーネ」
「ええ、本当に……」

 優しく抱きしめるアントンの肩に、ヘレーネは顔を埋めた。

「まぁ、仲がよろしいこと。」

 幸福な瞬間を断ち切るように、ゾフィー大公妃の揶揄する声が室内に響いた。
 その声に、ヘレーネは我に返り、アントンからそっと身を引いて、優雅に身をかがめ、大公妃に深々と礼をした。

「大公妃殿下、ご無沙汰しております。」

 ゾフィー大公妃は厳かな表情を保ちながら、しばらくの沈黙の後、絞り出すように言葉を紡ぎ出した。

「ヘレーネ、あなたは幸せなのね……」

 かつて、ゾフィー大公妃はヘレーネを皇帝フランツ・ヨーゼフの妃に迎えようと望んでいたが、エリーザベトへの皇帝の一目惚れでその計画は潰えた。

 ゾフィー大公妃はエリーザベトが幼すぎること、ヴィッテルスバッハのよくない兆候があることを指摘して猛反対していた。
 そして今、ゾフィー大公妃の懸念どおり、エリーザベトは宮廷になじまずに逃げ出してしまった。

 大公妃の言葉に、ヘレーネは過去の苦悩が蘇り、胸がざわついたが、穏やかな微笑みを浮かべて、はっきりと返答した。

「はい、おかげさまで幸せな結婚生活を送っております」

 ゾフィー大公妃はその答えに目を眇め、扇をパチンと閉じると、女官長に命じた。

「それは重畳で何より。皇太子と皇女をここへ」

 ほどなくして皇女と皇太子が連れてこられた。
 大きな瞳でヘレーネを見つめるその姿に、ヘレーネは急にレーゲンスブルクに残してきた娘たちに会いたくてたまらなくなった。

 ギーゼラ皇女が大公妃の視線を避けるように、こっそりとヘレーネに近づき、小さな声で囁いた。

「お母様は、いつ帰ってくるの?」

 その幼い声に、ヘレーネの胸が熱くなった。
 ヘレーネは腰を屈めて、皇女の目を真っすぐ見つめて答えた。

「お母様は必ず、あなたのもとに帰ってきます。もう少しだけ、待っていてくださいね」

 安心感を与えたのか、ギーゼラは満足気に小さく頷いた。
 ヘレーネの心もまた、妹が母親として必要とされていることを感じ、温かい思いに包まれた。


 シェーンブルン宮殿を出たヘレーネとアントンは、待機していた馬車に乗り込んだ。
 馬車が宮殿を離れ、心地よく揺れる中、長期間の任務を終えた安堵感がヘレーネを包んでいた。

 彼女の心はすでにレーゲンスブルクに残してきた娘たちへと向かっていた。
 ギーゼラ皇女がこっそりと尋ねた純粋な問いかけが胸に響き、ますます娘たちに会いたいという思いが募っていた。

 8月にトリエステへの列車に乗り込み、軍艦でコルフ島へ向かう5日間の旅。コルフ島ではひと月かけて、エリーザベトの心の澱を聞き出し、逃避の原因を探ってきた。
 そして、ウィーンで皇帝に報告を終えた今は、もう夏も過ぎゆく9月の末。
 予定よりも短縮されたとはいえ、家族と過ごせない日々は長く感じられた。

「早く帰って、娘たちに会いたいわ……もう一月半以上も一緒に過ごしていないんですもの。あの子たち、どんなに大きくなったのかしら」

 ヘレーネがしみじみと呟くと、隣に座るアントンが彼女の手をそっと取り、少し甘えた声で言った。

「ヘレーネ、今は……二人きりなんだから、少しは夫のことも気にかけてくれないか?」

 彼のいたずらっぽい微笑みと、彼女を見つめる愛情に満ちた瞳に、ヘレーネは軽く笑みを浮かべ、彼の手を握り返した。

 二人は自然と見つめ合い、どちらともなく顔を近づけ、そっと唇を重ねた。
 馬車の窓から差し込む柔らかな光が、仲睦まじい夫婦を包み込んでいた。
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