拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
 そして、ちらりとこちらを見たかと思うと、おもむろに切り出した。

「あんたさ、『花咲く丘の二人』って知ってる?」
「知ってるよ。全巻持ってる」

 というか知っているも何も、キット様に紹介した一番好きな本がそれである。流行っているのだろうか、と思ったところで六年ぶりの新刊がもうすぐ出るのだったと思い出した。

「読みたいんだけど、貸してくれる?」
 クリスが読みたいというのは意外だった。

「いいけど、恋愛小説だよ?」

 クリスは貴族学校に飛び級で入学したぐらいなので、すこぶる頭が良いし色々な本を読んでいる。けれど、恋愛小説を好むようには見えなかった。学術書を読んでいる方が、彼には似合う。

「分かってる」

 ばかにしたくて読むのならやめて欲しいと思ったけれど、応える青の目は真摯だった。私の預かり知らないところで、何か恋愛小説を読まないといけないのっぴきならない事情でもあるのかもしれない。

「書斎に置いてあるから」
「じゃあ、おれも行く」

 連れ立って書斎に向かって、それが収まっている棚の前に立った。

「ちょっと待ってね」
 上から二番目の棚は、手を伸ばしても届かない。本棚用の台を持って来て、私はその上に乗った。

「これこれ! すごくいい本なんだよ」

 本を取って振り返ったところで、体がぐらりと傾いだ。

「あっ」

 そういえば、この台は建て付けが悪いんだった。

 直さないとと思っていたのに忘れていた。
 遠ざかっていく本棚がやけにゆっくり見える。それなのに、どうしようもできない。

「危ないなあ、もう」

 しなやかな腕が背中から回される。抱き止められて、その胸に身を預ける様な形になる。弾みで手を置いてしまったら、思いの外しっかりとした胸板に触れる。

「く、クリス」

 台の分の高さを借りて、やっと目線が同じだった。青い瞳と見つめ合う。背が高いことは知っているはずなのに、こんな些細な出来事で実感させられる。

「ほんと、そそっかしいんだから」
 呆れたように溜息を吐くと、クリスは私を台の上から下ろした。
 
 そのまま棚に手を伸ばして、するりと、望みのものを抜き取ってしまう。
 彼の手はもう、私の手が届かないものに届くのだ。

「きれいな本だな」
 金箔の施された外函を大きな手がそっと撫でる。

「これは豪華版だから」

 両親に強請って買ってもらったものだ。幸せな時の象徴のようで、見るのが怖かった。だから、あんなにもすきだったお話だったのにわざと高い棚に仕舞い込んでいたのだ。

 けれど、クリスと一緒ならそれも怖くない気がした。

「ここで読んでもいい?」
「どうぞどうぞ」

 書斎のカウチにクリスが腰を下ろす。澄んだ目が物語の中へと落ちていく。

 昔からそうだ。クリスは集中すると周り音が聞こえなくなる。絵を描いている時もいつもそうだった。

 私も手近な本を手に取って、彼の横に座った。隣にいるのなんていつぶりだろう。時折、ページをめくる音だけが書斎に響く。しんと静かなのに、不思議と息苦しい気はしなかった。
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