拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
 それは、そうなのだけれど。

「私今から文房具屋さんに行きたいの。だから急いでて」

 これは、本当。キット様に送る便箋がなくなったので買いに行こうと思っていたのだ。とりあえず、彼女達の視界から消えなければならない。早足で歩く私の横を、クリスは手を取ったまま平静な顔で歩く。

「あ、そう」
「別についてこなくていいのに」
「まさか。おれも文房具屋に用があるだけ」

 私の三歩が彼の一歩に等しい。いつの間にか引きずられるようになっている。背が高いって、足が長いって、こういうことなのか。

「クリス」
「なに」
「その、もうちょっとゆっくり歩いて」

 例えば彼が本気で走り出したら、私はもう追い付けないのかもしれない。
 ずっとクリスの手を引いていたのは私だったのに。なんだか不思議な気分だ。

「ごめん」

 途端に彼の足の進みが遅くなる。振り返ると、人だかりはもう随分と遠くなっていた。ほどなく、文房具屋の前に着いた。

「何買うの?」
「便箋だよ」

 連れ立って歩いて、レターセットの棚の前に立つ。

 封筒は文通屋のものと決められているけれど、便箋は自由だ。キット様から送られてくるものは、どれも落ち着いたデザインの上品なものが多い。私も何か素敵なものを送りたい。

 こっちのリボンの縁取りのものはどうだろう。ちょっと幼過ぎるかな。あっちの金の箔押しのものの方が、大人っぽいだろうか。
 見れば、隣のクリスも便箋を選んでいる。

「クリスも買うの?」

 彼が持っていたのは、四葉のクローバーがあしらわれた便箋だった。控えめだけど可愛らしいデザイン。送った人ももらった人も両方幸せになれそうだ。

「おれが買うと悪い?」

 私は首を横に振った。素敵な令嬢からもらった恋文(ラブレター)に返事でも書くのだろうか。そういえば、絵はよく見たけれど、私はクリスの字をほとんど見たことがなかったことに気が付いた。きっと、気難しそうな細かい字を書くのだろう。そんな気がする。

 別々に会計を済ませて店を出る。

「私、帰るね」

「これ」
 ずいっと差し出されたのは、本屋の紙袋だった。

 あの人だかりの中からクリスが笑顔を振りまいて手に入れた最新刊が、この中には入っている。

「読まないの? 楽しみにしてたのに」
 それは、そうなのだけれど。

「クリスは読まないの?」
「おれはまだ六巻を読んでるところだから、あんたの後でいい」

 六巻は幸せなシーンが多くて私も好きだ。
 ここから先が佳境で、今までで一番の困難が二人を襲う。七巻の終盤で、ロイはジェシカのことだけ記憶喪失になってしまうのだ。

「……本当にいいの?」
「うん」

 もう一度、差し出されたそれを私は受け取った。厚みの分だけ重みが手に食い込む。
 やさしくされるとどんな風に返せばいいのか分からなくなる。彼は他の令嬢にもこんな風にするのだろうか。

「じゃあね」
 くるりと踵を返して、クリスは歩いていく。長身の姿はすぐに町並みに溶けていく。

 楽しみにしていた本が読めて嬉しいはずなのに、どんな顔をしていいか私は分からなかった。
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