拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
 普段しないことでも、何度も繰り返せば慣れてくる。

「どうかな」

 これを問いかけるのも、もう五回目だ。だからきっと、またクリスは当たり障りのない返事をしてくれるのだと思っていた。
 弾かれたように、クリスが立ち上がる。その拍子に、手に持っていた本がぱさりと落ちた。『花咲く丘の二人』の七巻だった。

「クリス……?」
 彼は立ったまま硬直していた。顔の前で手をひらひらと振っても反応がない。
 どうしよう、そんなに似合わなかっただろうか。

「大丈夫?」
 つんつん、と肩を叩くと彼はゆっくりと瞬きをした。湖面のような青い瞳に吸い込まれそうになる。

「キャロライン、一回後ろを向いて」
 言われるがままに私はくるりと後ろを向く。

「う、うん」

 クリスの目はずっと、私の姿を追いかけている。重ねられたフリルがふわりと揺れて、なんとも言えない華やいだ気持ちになった。
 本物のクリスに背を向けて、鏡の中の彼と向き合う。置かれた鏡の中で、彼が小さくガッツポーズをしたのが見えた。

「ひかえめに言って完璧だ」
「えっ」
 そんな風に、手放しで褒めてもらえるとは思っていなかった。

「どうしたって、これ以外に考えられないだろ。絶対これだ。これを仕立ててもらおう。いいですね、マダム=ローラン」
「では、そのように」

「ついでにさっきの黄色も仕上げてください。あれもよく似合ってた」

 まるでクリスがドレスを仕立てるみたいな口ぶりだった。私が首を傾げるとクリスが慌てて言う。

「……って、思うはずだ。そのなんとかっていう侯爵様も」
「キット様ね」
「そう、それ」

 どうして今まで、気が付かなかったのだろう。

「ねえ、クリス」
 わたしはすぐ目の前に立つ長身に訊ねる。

「なに」
 まるで裁きでも待つかのように、彼は息を詰めた。

「もしかして、キット様がどんな人か知ってるの?」

 私と違って、クリスはちゃんと社交をしている。高位の貴族同士の繋がりもあるはずだ。だとしたらこの二人の間に面識があったとしても何もおかしくはない。

 クリスははっと目を見開いたかと思うと、私から顔を背けた。安堵したように大きく息を吐いて、青い目は俯き加減に床を彷徨う。

「ああ、うん、その、そうだな。知ってるよ」

 やっぱりそうだ。そうだったのだ。

「ねえ、キット様はどんな人?」
「あんなやつ、大したことないよ」

 クリスは呆れたように銀色の前髪をかき上げた。何か遠くを見る様に、その目を細める。

「ただの甘ったれで意気地なしの、つまらない男だよ」

 クリスは本当に、彼をよく知っているようだった。色素の薄い横顔が、僅かに歪む。
 ひとつとしてクリスは、キット様に対して肯定的な言葉を向けることはない。

「そんな風に、言わないでよ」

 クリスの言葉がやけに悲し気に聞こえて、私は思わず彼の服の袖を掴んでしまった。

 けれど、彼からの返事はなかった。
 そして、私の方を向いてくれることも、なかった。 
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