拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
その話を聞いたのは、文通屋に行った時だった。
今月分の封筒をもらいに私はそこを訪れていた。前の配達から時間が空いてしまったので、タイミングを逃していたのだ。
文通屋の一角は、令嬢たちのサロンのようになっている。座り心地の良さそうな椅子に腰かけて、おしゃべりに興じているのだ。私はああいった場には縁がないけれど、この場にいれば声は聞こえてくる。
「ねえ、知ってらっしゃる? ラザフォード家のクリストファー様が婚約を申し込まれたそうよ!」
聞き流していた声が、耳慣れた名前を呼ぶ。いつの間にか、私はぴんと聞き耳を立ててしまっていた。
「まあ、あのクリストファー様が」
クリスは、誰と婚約するのだろう。
「お相手はどなたなの? 先日ダンスも踊られていたし、やっぱり王女殿下かしら」
「かもしれないわ。でも、ウィンストン家のクラリッサ様っていう噂もあるの」
ウィンストン家は、ラザフォード家と同じ侯爵位だ。クラリッサという令嬢のことを私はよく知らないけれど、きっと若くて美しい娘なのだろう。
「喜ばしいことだけれど、残念ね」
「そうね。クリストファー様を狙っていた方は今頃泣いているかもしれないわ」
私だってアラン様と婚約する予定なのだ。何も口を出せることはない。十八歳は男性の婚姻年齢としてはやや早いけれど、このぐらいの年齢で結婚する人もいないことはない。
こういう日が来ると、頭ではちゃんと分かっていたのに。彼の結婚を泣いて嘆く権利も、私にはないだろう。
いつものように目覚めて過ごす日が世界を変えてしまうことがあると、望んだ“明日”だけが来るわけではないと、私はちゃんと知っていたのに。
顔も知らない誰かが願ってくれる幸せに甘えて、私は明るい日が来ることを夢見ていたのだ。
文通屋からどんな風にして家に帰ったのか、うまく覚えていない。
「ねえ、本当なの」
放心したように過ごしていたら、当の本人がやって来た。私が座るカウチの前に、見上げるほどの長身が立ちはだかる。
私自身が、まるで彼の影にすっぽりと覆われたようになる。
「どうしたの、クリス。今日はお土産ないの?」
「はぐらかすなよ、キャロライン」
努めて明るい声を出したら、青い目が曇った。
「オースティン卿と婚約するって、本当なのかって聞いてる」
肩に手が置かれる。それは思いの外強い力で、食い込んでくる。
「本当だよ」
こんなことで嘘をついても仕方がない。社交界にいればいずれ分かる話だ。
「どういうつもりだよ」
「どういうって言われても……」
散々私のことを行き遅れだと称したくせに、クリスは責め立てるように言った。
「私もそろそろ結婚しても、いいかなって」
「いいかなって、なんだよ」
項垂れたクリスの顔を銀色の前髪が覆う。彼の手が震えているのが分かる。同じように、声も少し震えていた。
「クリス?」
その顔を覗き込もうとしたところで、ぐっと、肩を押された。
「あんたは何も分かっていない!」
突如世界がくるりと回った。
「きゃっ」
カウチに押し倒されたのだと理解したのは数瞬後。
眼前に見慣れた天井が広がって、その中心にクリスがいた。
「結婚するってことは、こういうことをするってことだぞ」
「分かってるよ」
真剣な色を宿した彼の目と向き合うのが辛くて、私は身を捩って顔を背けた。
貴族が結婚をするのは、家を継ぐ子を儲けるためだ。だから、当然閨事が求められる。
愛だとか恋だとか、ましてや運命なんてものは二の次だ。
「ちゃんと、できる」
脳裏によぎったのは、あのキスだった。
あの熱さを、あの感触を、私は頭の中から追い出すことができない。むしろ忘れようとする度に、鮮烈になっていく気さえする。
結婚すれば、それよりもっと先のことをすることになる。よくぼんやりしていると言われる私でも、それぐらいのことは分かる。
「ふうん」
クリスは鬱陶しそうに前髪を払うと、私の頬に手を当てて、強制的に見つめ合わせた。
「なら試してみようか。本当に、できるか」
今月分の封筒をもらいに私はそこを訪れていた。前の配達から時間が空いてしまったので、タイミングを逃していたのだ。
文通屋の一角は、令嬢たちのサロンのようになっている。座り心地の良さそうな椅子に腰かけて、おしゃべりに興じているのだ。私はああいった場には縁がないけれど、この場にいれば声は聞こえてくる。
「ねえ、知ってらっしゃる? ラザフォード家のクリストファー様が婚約を申し込まれたそうよ!」
聞き流していた声が、耳慣れた名前を呼ぶ。いつの間にか、私はぴんと聞き耳を立ててしまっていた。
「まあ、あのクリストファー様が」
クリスは、誰と婚約するのだろう。
「お相手はどなたなの? 先日ダンスも踊られていたし、やっぱり王女殿下かしら」
「かもしれないわ。でも、ウィンストン家のクラリッサ様っていう噂もあるの」
ウィンストン家は、ラザフォード家と同じ侯爵位だ。クラリッサという令嬢のことを私はよく知らないけれど、きっと若くて美しい娘なのだろう。
「喜ばしいことだけれど、残念ね」
「そうね。クリストファー様を狙っていた方は今頃泣いているかもしれないわ」
私だってアラン様と婚約する予定なのだ。何も口を出せることはない。十八歳は男性の婚姻年齢としてはやや早いけれど、このぐらいの年齢で結婚する人もいないことはない。
こういう日が来ると、頭ではちゃんと分かっていたのに。彼の結婚を泣いて嘆く権利も、私にはないだろう。
いつものように目覚めて過ごす日が世界を変えてしまうことがあると、望んだ“明日”だけが来るわけではないと、私はちゃんと知っていたのに。
顔も知らない誰かが願ってくれる幸せに甘えて、私は明るい日が来ることを夢見ていたのだ。
文通屋からどんな風にして家に帰ったのか、うまく覚えていない。
「ねえ、本当なの」
放心したように過ごしていたら、当の本人がやって来た。私が座るカウチの前に、見上げるほどの長身が立ちはだかる。
私自身が、まるで彼の影にすっぽりと覆われたようになる。
「どうしたの、クリス。今日はお土産ないの?」
「はぐらかすなよ、キャロライン」
努めて明るい声を出したら、青い目が曇った。
「オースティン卿と婚約するって、本当なのかって聞いてる」
肩に手が置かれる。それは思いの外強い力で、食い込んでくる。
「本当だよ」
こんなことで嘘をついても仕方がない。社交界にいればいずれ分かる話だ。
「どういうつもりだよ」
「どういうって言われても……」
散々私のことを行き遅れだと称したくせに、クリスは責め立てるように言った。
「私もそろそろ結婚しても、いいかなって」
「いいかなって、なんだよ」
項垂れたクリスの顔を銀色の前髪が覆う。彼の手が震えているのが分かる。同じように、声も少し震えていた。
「クリス?」
その顔を覗き込もうとしたところで、ぐっと、肩を押された。
「あんたは何も分かっていない!」
突如世界がくるりと回った。
「きゃっ」
カウチに押し倒されたのだと理解したのは数瞬後。
眼前に見慣れた天井が広がって、その中心にクリスがいた。
「結婚するってことは、こういうことをするってことだぞ」
「分かってるよ」
真剣な色を宿した彼の目と向き合うのが辛くて、私は身を捩って顔を背けた。
貴族が結婚をするのは、家を継ぐ子を儲けるためだ。だから、当然閨事が求められる。
愛だとか恋だとか、ましてや運命なんてものは二の次だ。
「ちゃんと、できる」
脳裏によぎったのは、あのキスだった。
あの熱さを、あの感触を、私は頭の中から追い出すことができない。むしろ忘れようとする度に、鮮烈になっていく気さえする。
結婚すれば、それよりもっと先のことをすることになる。よくぼんやりしていると言われる私でも、それぐらいのことは分かる。
「ふうん」
クリスは鬱陶しそうに前髪を払うと、私の頬に手を当てて、強制的に見つめ合わせた。
「なら試してみようか。本当に、できるか」