拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
 こつん、と額が触れ合う。
 ふわりと、鼻先にさわやかな柑橘と奥行きのある木々の匂いが香った。

 ああ、またこの目だ。潤んだ青い目が、私を一心に見つめる。視線が絡み合えば、手に取るように分かった。彼が今から何をしようとしているが。

「だめっ」

 気づけば叫ぶように言っていた。
 胸板に手を当てて、押し返す。もっとも、そんなことをしても確かな男の体はびくともしなかったけれど。

「ほうら」
 すっと肩から手をどけて、クリスはばかにしたように鼻で笑った。

「やっぱりあんたには無理なんだよ。いい加減諦めて、おれと」

 機嫌を取るように頭に伸びてきた手を、私は弾くように払った。手と手が触れ合って、ぱんっと高い音がした。

「やめて」
 そう応えた私の声は、強い拒絶を宿して想像以上に冷たく響いた。

「なん、だよ」

 クリスが分かりやすく狼狽えた。

 一回なら、間違いだと笑い飛ばせるかもしれない。
 けれど、二回目はだめだ。

「クリスじゃないなら、誰でもいい」

 それに、今彼はお酒を飲んでいない。まったくの素面(しらふ)だ。
 キスしてしまったら、クリスはきっとそのことを覚えているだろう。

「誰とだって、できるよ」

 私が当然のようにクリスの隣に座って居られたあの頃とは、違う。
 彼は見違えるように格好良くなって、大人になった。

 私はただ惨めに落ちぶれて、行き遅れている。
 手を伸ばすことなんてもう、できないじゃないか。
 だから、クリスはだめだ。

「キャロラインは、」

 かろうじてそう問うたクリスの声が掠れた。
 溢れ出しそうな青い目が揺れている。

「おれのこと、どう思ってるの」

 突き刺さるほどの沈黙が落ちる。ばくばくと脈打つ自分の心臓の音しか聞こえない。息をするのも痛いほどだった。

 この関係について、どちらかが名前を付けなればならないのなら、私が付けよう。

「なにって、大事な幼馴染だよ」

 そう言って、精一杯笑ったつもりだった。ちゃんと笑顔に見えていたかは、分からないけれど。

 今までも、これからも、ずっとそうだろう。これより先に踏み込む術を、私は知らない。

「……そっか」

 静かな低い声が返事をした。紙のように、顔色が真っ白だった。
 表情の抜け落ちた相貌は、ただただ整っていてどこか造り物めいていた。
 ぎこちない動きでカウチから立ち上がった彼は、大きな音を立てて扉を閉め、部屋を後にした。

 飾っていた花束から、ひらりと花びらがひとつ落ちた。

 クリスがくれたあの花束だ。もらった時はあんなに沢山の花が色鮮やかに咲いていたのに、枯れた葉や花を少しずつ減らしていったら、今もう花瓶に残っているのは一輪だけだ。

 これではもう、花束とも呼べないだろう。

 水を変えても切り戻しをしても、花がまた咲くことはない。
 分かっていたのに、私は未練がましく花瓶に入れたままにしていた。

 物事には必ず、終わりがある。
 季節は止まることなく流れていく。どんなに長く咲いていた花も、永遠ではない。

 私はその花をごみ箱に捨てた。
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