拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
第七章:私の心
「観劇はお気に召さなかったですか?」
向かいの席に座った壮年の男が、微笑みかけてくる。にこりと、音まで聞こえてきそうな笑みだ。
「いえ、そういうわけでは」
私はアラン様と喫茶にいる。いわゆる、デートというやつだ。
町並みがよく見渡せるテラス席は、さわやかな風が通り抜けて気持ちがいい。
劇場で流行りの芝居を見て、喫茶で休憩する。
劇場でも喫茶でも、アラン様のリードは完璧だった。紳士の教本に書いてあるんじゃないかというような、素晴らしいデートだった。
「あの劇、『花咲く丘の二人』を題材にしているんですよね」
「はい、そうですね」
「私、あのお話がすごく好きで。ずっと読んでいたので面白かったです」
これは本当だ。劇の方は、本とは違った部分もあったけれどこちらはこちらで楽しめた。
そういえば、あんなに楽しみにしていた最終巻を私はまだ読めていない。ドレスに舞踏会に婚約に、現実が物語と同じぐらい忙しくて、本と向き合えなかった。
「それはよかった。あなたはきっと、ああいうのが好きだと思ったんです」
ということは、アラン様もあの恋愛小説を読んでいるということだろう。私の中でまた一つ、アラン様とキット様の共通点が増えた。
「じゃあ他に何か、気になることがありますか、キャロル」
テーブルに置いた私の手に、アラン様がそっと手を重ねてくる。節くれだった、男の人の手。
気になることは、ある。
「どうして、すぐに婚約されなかったのですか」
アラン様は叔父が婚約了承の返事をしても、すぐに婚約を結ぼうとはしなかった。けれど代わりに少なくない額のお金を払ったので、叔父は今も揉み手で上機嫌である。デートに行くといってもふたつ返事で送り出してくれる。
「なんだ、そんなことですか」
アラン様がそっと指を絡めて私の手を握った。いわゆる恋人つなぎというやつだ。そのままもう片方の手で包み込むようする。
「不安にさせて申し訳ありません。あなたと“恋人”でいたかったので」
「恋人」
「婚約してしまえば、『婚約者』となってしまうじゃないですか。だから、少しの間でもときめきのある関係でいたかったんです」
「ときめき……」
言われた言葉を反芻してみる。それはさながら手付金と呼べるようなお金で買えるものなのだろうか。
恋人もときめきも、頭上を流れていく雲のようにふわりと浮かんでは消えていく。
この言葉は果たして、アラン様の本心だろうか。それとも社交界一といわれる女誑しの技巧の一つだろうか。
「キャロル?」
そんなことを考えていたら、緑の目がじっと私を見つめていた。目が合えば、言ってみなさいとばかりにアラン様は頷く。
「あ、いえ。他のご令嬢にも、このように言っておられるのかなと……」
アラン様の目が見開かれて真ん丸になる。しまった、さすがに失礼がすぎた。怒られるかと思ったのに、その後の彼の反応は真逆といっていいものだった。
「はははっ。あなたは思っていたより手ごわいな」
声を立ててアラン様が笑う。最初の微笑みとは違う、心の底からおかしいと思っているような、そんな笑い。目の端には涙まで滲んでいて、彼は手の甲でそれを拭った。洗練されたアラン様には珍しい、粗野な仕草だった。
「どおりでラザフォード侯が苦労するわけだ」
「どうして、ここでクリス……ラザフォード様のお名前が出てくるのですか?」
あの幼馴染は今何の関係もないだろうに。
私が首を傾げると、アラン様は目を細めて微笑んだ。握られた手の力が、少しだけ強くなる。
「それは、どうしても、ですよ。キャロル」
この手を解かなければ、そう思うのに私はできなかった。
「『ノワール』で新しいドレスを仕立てても構わないかな?」
恭しいばかりだったアラン様の口調が、親し気に砕けたものになる。
それこそ本当に、“恋人”に愛を囁くようなものに。
「この間のものはとても可愛らしくて似合っていたけれど。もう少し違う雰囲気のものも、あなたには似合うと思う」
クリスが完璧だと言ってくれたピンクのドレス。
それとは違う、新しいドレスをアラン様は仕立てたいという。
「それを着たあなたと一緒に、夜会に出たい」
そのドレスをもしクリスが見たら、どう思うのだろう。
最近なんか変だ。何をしていてもずっとクリスのことが頭から離れない。
苦し紛れに少しだけ頭を振って、私は返事をした。
「分かりました」
向かいの席に座った壮年の男が、微笑みかけてくる。にこりと、音まで聞こえてきそうな笑みだ。
「いえ、そういうわけでは」
私はアラン様と喫茶にいる。いわゆる、デートというやつだ。
町並みがよく見渡せるテラス席は、さわやかな風が通り抜けて気持ちがいい。
劇場で流行りの芝居を見て、喫茶で休憩する。
劇場でも喫茶でも、アラン様のリードは完璧だった。紳士の教本に書いてあるんじゃないかというような、素晴らしいデートだった。
「あの劇、『花咲く丘の二人』を題材にしているんですよね」
「はい、そうですね」
「私、あのお話がすごく好きで。ずっと読んでいたので面白かったです」
これは本当だ。劇の方は、本とは違った部分もあったけれどこちらはこちらで楽しめた。
そういえば、あんなに楽しみにしていた最終巻を私はまだ読めていない。ドレスに舞踏会に婚約に、現実が物語と同じぐらい忙しくて、本と向き合えなかった。
「それはよかった。あなたはきっと、ああいうのが好きだと思ったんです」
ということは、アラン様もあの恋愛小説を読んでいるということだろう。私の中でまた一つ、アラン様とキット様の共通点が増えた。
「じゃあ他に何か、気になることがありますか、キャロル」
テーブルに置いた私の手に、アラン様がそっと手を重ねてくる。節くれだった、男の人の手。
気になることは、ある。
「どうして、すぐに婚約されなかったのですか」
アラン様は叔父が婚約了承の返事をしても、すぐに婚約を結ぼうとはしなかった。けれど代わりに少なくない額のお金を払ったので、叔父は今も揉み手で上機嫌である。デートに行くといってもふたつ返事で送り出してくれる。
「なんだ、そんなことですか」
アラン様がそっと指を絡めて私の手を握った。いわゆる恋人つなぎというやつだ。そのままもう片方の手で包み込むようする。
「不安にさせて申し訳ありません。あなたと“恋人”でいたかったので」
「恋人」
「婚約してしまえば、『婚約者』となってしまうじゃないですか。だから、少しの間でもときめきのある関係でいたかったんです」
「ときめき……」
言われた言葉を反芻してみる。それはさながら手付金と呼べるようなお金で買えるものなのだろうか。
恋人もときめきも、頭上を流れていく雲のようにふわりと浮かんでは消えていく。
この言葉は果たして、アラン様の本心だろうか。それとも社交界一といわれる女誑しの技巧の一つだろうか。
「キャロル?」
そんなことを考えていたら、緑の目がじっと私を見つめていた。目が合えば、言ってみなさいとばかりにアラン様は頷く。
「あ、いえ。他のご令嬢にも、このように言っておられるのかなと……」
アラン様の目が見開かれて真ん丸になる。しまった、さすがに失礼がすぎた。怒られるかと思ったのに、その後の彼の反応は真逆といっていいものだった。
「はははっ。あなたは思っていたより手ごわいな」
声を立ててアラン様が笑う。最初の微笑みとは違う、心の底からおかしいと思っているような、そんな笑い。目の端には涙まで滲んでいて、彼は手の甲でそれを拭った。洗練されたアラン様には珍しい、粗野な仕草だった。
「どおりでラザフォード侯が苦労するわけだ」
「どうして、ここでクリス……ラザフォード様のお名前が出てくるのですか?」
あの幼馴染は今何の関係もないだろうに。
私が首を傾げると、アラン様は目を細めて微笑んだ。握られた手の力が、少しだけ強くなる。
「それは、どうしても、ですよ。キャロル」
この手を解かなければ、そう思うのに私はできなかった。
「『ノワール』で新しいドレスを仕立てても構わないかな?」
恭しいばかりだったアラン様の口調が、親し気に砕けたものになる。
それこそ本当に、“恋人”に愛を囁くようなものに。
「この間のものはとても可愛らしくて似合っていたけれど。もう少し違う雰囲気のものも、あなたには似合うと思う」
クリスが完璧だと言ってくれたピンクのドレス。
それとは違う、新しいドレスをアラン様は仕立てたいという。
「それを着たあなたと一緒に、夜会に出たい」
そのドレスをもしクリスが見たら、どう思うのだろう。
最近なんか変だ。何をしていてもずっとクリスのことが頭から離れない。
苦し紛れに少しだけ頭を振って、私は返事をした。
「分かりました」