拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
 そのあたたかさに触れたらもう、だめだった。涙があとからあとから溢れて止まらない。

 ぎこちない手つきで、頭に手が伸びてくる。私がよくそうしたように、クリスは髪を撫でてくれた。

『悲しいことがあった時は、ないてもいいと思う』
『くり、す……』

 自分よりも一回りは小さな背に縋りつく。そうしていないと自分が保てなくなりそうだった。
 いきなりのことで彼も驚いたはずだ。けれど、クリスは私を振りほどくようなことはしなかった。

『明日が来るのがね、こわいんだ』

 だって、昨日までは何も変わらなかったのに。ちゃんと幸せだったのに。目を閉じてまた開けたら、世界は変わってしまった。
 未知のきらめきに溢れていた明日が途端に、ぽっかりと口を開けている闇のように見えて、踏み出すのが恐ろしくなった。

『ずっと今日のままでいられたらいいのに』

 そうすれば、こんな悲しい思いをしなくていいのに。ずっと、楽しい思い出の中にいたかった。

『それは、だめだよ』

 澄んだ青い瞳は、私の我儘を静かに、けれど強く退けた。

『僕は大人になりたいから。だから、明日が来ないといやだ』

 きゅっと、クリスは私の手を握る。
『怖いのなら、僕が幸せな明日を祈るよ』

 ああ、どうしてこんな大切なことを忘れていられたんだろう。
 いや、違う。忘れていたんじゃない。

『何年だって、何十年だって、キャロの幸せを願うから。だから、そんなこと言わないで』

 これは私の根底にあるものだから。思い出すこともないぐらい、深く結びついていたから。だからだ。

『ねえ、クリス』
『なあに』

『じゃあ、クリスはずっと、私と一緒にいてくれる?』
 もう嫌だったのだ。自分の前から誰かがいなくなってしまうのが。

『うん、いるよ』
 決して大きな力強い手ではない。

 それでも、その小さな子供の手は確かな命綱のように私を繋ぎ止めてくれた。

『僕がずっとキャロのそばにいる。ずっと一緒だよ』

 アラン様の言った通りだ。
 ちゃんと一番近くに、私の青い鳥はいたのだ。
 私がそう願ったから。だから、彼は応えてくれた。

 また、足音がする。今度は、しっかりとしたブーツの音だ。
 そうだ。彼はいつも、私を見つけてくれる。呆れたような溜息の後に、クリスは言う。

「あんたはいつもそこにいるね」

 私でさえこれだけ窮屈なのだ。あれだけ背が伸びた彼はもう、ここには入れないだろう。
 ただ机の前に立っている。

 やっと分かった。

 ――明日の貴女(あなた)が幸せでありますように。

 あの言葉をくれた人。私の幸せを、ずっと願ってくれる人。

「……クリスがキット様だったんだね」

 机の上で、困ったように笑う気配がした。
「気付くのが遅すぎるんだよ」

「うん、遅くなってごめん」
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