拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
『クリスじゃないなら、誰でもいい』
 そう言った彼女の声が頭から離れない。

 紫の瞳は、僕を真っ直ぐに射抜くように見た。
 思わず強く掴んでしまった肩の感触が、まだこの手に残っているような気がする。

 キャロラインはオースティン卿と婚約するらしい。噂によれば、彼は叔父の事業に対して、目も眩むような額の援助を申し出たらしい。僕も一応手を挙げるだけは挙げていたが、それほどの好条件を示せたとは思えない。

 キットに対しても、手紙の返事は来ない。
 目の前に本物の(・・・)素敵なおじ様が現れたのだから、紙の上の偽物になんてもう用はないのかもしれない。

 机の上には、借りたままの本が詰まれている。
 『花咲く丘の二人』の四巻から九巻だ。それがまるで僕と彼女を結ぶ最後の糸のように思えた。

 未練がましくページをめくっていたら、活字が少しずつ意味を成してきた。
 最初はキャロラインと話を合わせたくて読み始めたけれど、この話には引き込まれるものがある。十巻まで出ているのも納得できる出来だ。

 ヒロインのジェシカは何かにつけてロイのことを考えている。それが僕には少し、いや大分羨ましかった。

『あんたは、』
 本当はキャロラインに聞いてみたかった。
 同じように、離れている間僕のことを思い出したりしたのかと。

 ただ、このロイという男のことが僕はちっとも好きになれない。
 どこからどう見てもジェシカが彼を好きなのは明白なのに、全体的に繊細すぎる。
 延々とうじうじと悩んでいるのだ。挙句の果てに、彼女は他の男を好きなんだと思い込んで勝手に旅に出始める。その結果あろうことか、一番大切なはずのジェシカのことだけを忘れてしまう。

 八巻の彼の独白にこんなものがある。故郷とよく似た色の海を前にした彼は思う。

 “ぼくが飲み込んだ思いは一体どこへ行くのだろう。いつか深い海の底で真珠になれるだろうか。そうすれば、彼女はそれを見つけて拾い上げてくれるだろうか”

 ばかばかしい。
 そんな都合のいいことが起きるのなら、みんなこぞって飲み込むだろう。
 さっさと潔く告白して結婚しないからそうなるんだ。

 本を読んでいる間は、現実を見つめずに済んだ。けれど、一たび本を閉じてしまえば事実は変わりなくそこに横たわっている。

 飲み込んだ思いはどこにも行かない。
 正しくは、行けない。それはただ石のように腹に溜まっていくだけだ。
 その分だけ体は重く冷たくなって、どんどん動けなくなっていく。

『なにって、大事な幼馴染だよ』
 そう言って、キャロラインは笑った。

 例えば、きらいだと言われた方がよっぽどよかった。
 罵られてもいい。あんな顔で笑うキャロラインを見るぐらいなら、何だってよかった。

 天井を仰いで考える。
 ロイに見えた世界はどんなものだったのだろう。
 一番好きな人を失った世界は一体、どんな色をしているのだろう。僕には想像もつかない。

 何を好きになるかが運命だと、アリシア様は言った。

 ――これを手放せば楽になれるって思っても、手放せるものでもないでしょう?

 まったくもって、その通りだ。

 石は何に還ることもなく、朽ちることもなく、ただこの身の内にある。
 いっそ忘れることができたらよかったのに。

「忘れる方法があるのなら、誰か教えてくれよ」

 僕は未だにずっと、みっともないぐらいにキャロラインのことが好きなのだ。
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