拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
幕間:はじまりの日
 母が、私の手を引いてくれている。

 まるで霞がかかっているかのように、視界の全てがどこかぼんやりとしている。
 ゆったりとした服を着たエステル様が椅子に腰かけている。私と母の姿を認めると、彼女はぱっと満面の笑みを浮かべた。

『久しぶり、アリシア、キャロ!』

 そう言うのは間違いなくエステル様に違いないのに、なんだがひどく若々しい。
 いや、エステル様は今も少女のようではあるけれど。

『調子はどう、エステル』
『すこぶる元気よ! ずっと蹴られてるわ。これは絶対男の子ね!!』

『そっか。ならよかった』

 母は安心したように笑い、向かいの席に座る。
 その隣に私も座らせてもらって、二人が話をするのを聞いていた。

『生まれるのはいつ頃?』
『うーん、予定通りなら三月の終わり頃かな。キャロとはちょうど、四歳差になるわね』

 視界の端で、宙に浮いた自分の足がぶらぶらとしている。どうやらちょっと退屈らしい。
 椅子からぴょんと飛び降りたかと思うと、私はエステル様の元へとぱたぱたと寄っていく。

 ぺたりと、小さな手がエステル様のお腹に触れた。そのまま、私は不思議そうに首を傾げる。

『なにがはいっているの?』
 そう言った声の幼さに驚く。

 ああ、そうか。これは昔の記憶だ。
 だからなんだか見える世界の目線が低いし、母もエステル様も若いのだ。

『ここにはね、私の宝物が入っているの』
 にこりと微笑んだエステル様が言った。

『たからもの』
 確かめるように、小さな私が返す。

『そう、宝物。キャロも昔そうだったんだよ』
『そうなんだ』

 そう応えてはみたものの、まだ意味がよく分かっていないのだろう。

『いっしょにあそべないの、つまらない』
 幼い私はぷいっと、そっぽを向いた。

『大丈夫。もう少しすれば一緒に遊べるようになるわ』
『ほんとう?』

『本当よ。そのうち、キャロより大きくなるかもしれないわ』
 なんだか含みのある笑顔でエステル様は終始にこにことしていた。思えばもうこの頃から、クリスと会わせる計画を立てていたのかもしれない。

『だったら、いますぐでてきてくれればいいのに』

『キャロライン!』
 叱責にも似た母の声が飛ぶ。事が事だけに、この言い方はあまりよくないだろう。
 早産を願うだなんて、縁起でもない。

 動揺した母を、静かに首を振るだけでエステル様は制した。
『そうね。わたしも早く会いたいってずっと思ってるわ』

 慈しむように、エステル様は膨らんだお腹を撫でた。そして、少し身を屈めて小さな私と目を合わせた。

『でも、色々と準備が必要らしいの。キャロも頑張っている時に急かされると困るでしょう?』
『うん、やだ』

『だから、もう少し待ってあげて。遅くなって悪いって、きっとこの子も思ってるから』

『わかった』
 小さな私は頷いて、もう一度エステル様のお腹に手を伸ばした。

『いそいで、ゆっくりきてね』

 さっきのエステル様の真似をして、ゆっくりとお腹を撫でる。

『わたし、まってるから』
 いくらかぎこちない手つきで、何度も何度も、私はそうしていた。
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