拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
エピローグ
「……ん」
「おはよう、キャロ」

 ゆっくりと目を開けたら、深い湖の底のような青がすぐそこにあった。
「きゃっ」

 美形というのは、寝ぼけた頭で至近距離で見るものではないと思う。きっと心を落ち着けて、ちょっと遠くから見るものだ。

 鼻先で長い銀色の睫毛が揺れている。
 距離を取ろうとしても、背中に回った手がそれを許さない。この腕は存外に力強いのだ。もう一度、その胸に抱き込まれた。

「何もそんなに驚くことないだろ」
 引っ付いた内側からクリスの声が響く。どこか拗ねたような声が、無性に彼らしい。

「うん、ごめんね」
 腕の中から見上げれば、クリスはバツが悪そうに目を逸らした。

「一応聞くけど、寝たら何があったか忘れたとか言わないよね?」
 窺うように、頭の上から声がした。

 クリスが私のことを好きだと言ってくれた。
 私も、彼のことを好きだと言えた。

 離れがたくて、ずっと抱きしめられているままだった。クリスも口数は多くなかったけれど、ただそばにいたかった。
 そうして、あたたかな体温に包まれたまま、私は眠ってしまったらしい。

「ちゃんと覚えてるよ」
 やっと思いが通じたのだ。忘れることなんて、できない。

「ならいいや」

 きゅっと自分の手首を握りしめたら、不思議と指先に何か触れた。
 見れば、左手首に見慣れぬ輝きがある。

「きれい……」

 真珠と蒼玉(サファイヤ)を交互に組み合わせたブレスレットだ。
 どちらも大振りのものではないけれど、繊細な煌めきがある。繋ぐ鎖は銀。

「指輪でもネックレスでも、おれはなんでもよかったんだけど」
 得意げにクリスは言った。

「手元が目に入ると元気になるんだろ」

 キット様からの手紙に、私は確かにそう返した。
 そしてこれは、眼前の男が纏う色とひどく似ている。
 思えばずっと、クリスはキット様の時から私の願いを叶えてくれていた。

「大事にするね」
 ぎゅっと広い背に手を回したら、返事の代わりに頭に手が触れた。

「クリスとはじめて会った日の夢を見たよ」
 私の茶色の髪を撫でながら、クリスは静かに呟く。

「ああ。別荘にキャロが来た日のことか」
「ううん。それより、もう少し前」

 私もずっと、あの日が最初だと思っていた。人見知りで、儚げで、妖精みたいな小さなクリス。
 だけど、あったのだ。もっと前、私は彼に出会っている。

「おれが覚えてないぐらい、小さい頃ってこと?」

 正確には、覚えていないというか、知る(よし)もない頃だけれど。
 これは彼の知らない、私だけの思い出だ。

「私ね、ずっとあなたを待ってたの」
 甘えるようにその手に頭を預けたら、クリスははっとしたように息を飲んだ。

 そうだ、何もクリスだけが待っていたわけではない。
 クリスが生まれる前から、私は彼を待っていた。

「それは、そうだな……」
 抱きしめる腕の力が、少しだけ強くなる。気遣うように、それでいて確かめるように。
 私がずっと待っていた、大好きな四つ年下の幼馴染。

「その、お待たせしました」
 クリスが私の肩に頭を乗せて申し訳なさそうに小声で言う。その様がどうしようもないほどに愛おしい。

 ――遅くなって悪いって、きっとこの子も思ってるから。

 本当だ。エステル様の言った通りだ。
 回り道を沢山したのかもしれないけれど、これからはずっと、そばにいたいから。

 ふわりとした銀色の頭を掻き抱いて、私はぎゅっと抱きしめた。
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