拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
 事実だけを挙げれば、クリスは人の家に勝手に上がり込んで勝手に帰っただけである。

 気にすることなんて何も無いと思うのに、あの顔が頭から離れなかった。とてもひどいことをしてしまった気になってくる。ずっと頭に焼き付いたようになって、離れない。

 頼みの綱の手紙も、もう三通を使い切ってしまった。エステル様に追加の分を頼むのは気が引ける。

 私は自室に戻ってただ机に座った。ここから一番よく見える壁に絵が飾ってある。
 窓枠に切り取られた湖水地方の景色。澄んだ水面はクリスの瞳の色によく似ている。さらりと記された読めないサイン。
 まだ両親が健在だった頃、ラザフォード家所有の別荘に行った時のものだ。

 今は殺しても死ななそうな顔をしているあの幼馴染も、昔は体が弱くてしょっちゅうけほけほ言っていた。療養している息子の遊び相手にと、エステル様は仲がいい私の母に声を掛けたらしい。

 はじめて会った時、クリスはエステル様の服をぎゅっと掴んでその背中に隠れていた。日にあまり当たらないせいで抜ける様に色が白くて、本当に妖精のようだった。あの頃はまだ、私の方が彼より背が高かった。

『僕のことなんか気にしないで遊びに行けばいいのに』

 色素が薄くて儚げで、ときおりはにかんで寂しそうに笑う。目を離せばふっとどこかに消えてしまいそうな、そんな男の子だった。

 調子がいい日、クリスはよく、窓から見える景色を絵に描いていた。私は付き纏うように隣に座って、彼が左手に持った鉛筆がさらさらと世界を描き上げていくのをずっと見ていて。

『クリスは魔法使いみたいだね』

 そう言うと、青い目に膜が張ったようになった。

 空いている方の手がこちらに伸ばされて、ぺたりと頬に触れる。真ん丸になったその目の中心に私だけが映っていた。何かを確かめるようにゆっくりと瞬きをする。

 時が止まったかのようにただ、じっと見つめ合った。すごく長い時間だったように思うけれど、多分きっと一瞬のことだったんだと思う。

『そんなに言うなら、キャロにあげる』

 ふと何かに気づいたかのように彼は画用紙の右下にサインのようなものを書き添えた。それから、クリスははじめて満面の笑みを浮かべたのだ。
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