両片想いの恋の味。
第二話 毎週水曜日、午後三時に安らぎを求める作家。
俺には、毎週水曜日の午後三時に安らぎを求めて訪れる店がある。

俺が住む町の商店街。少し分かりづらい路地を曲がったところすぐにあるカフェはお気に入りの休憩場所だった。
普段、自宅で書き物の仕事をしている俺の休みの日は水曜日だ。午後三時にカフェを訪ねればドアを開けて一番に視界に入った彼女の横顔。ドアベルの音を聞きながら店内に進めば、ふわりとした柔らかな微笑みを向けて彼女は俺に「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる。
わかりやすく人差し指を立てて「一人です」と人数を伝えると彼女は大きく頷いて好きな席へどうぞと言ってくれた。
一直線に向かったのは、お気に入りの席だ。カウンター席の近くの二人掛けのテーブル席は程よく店内を見渡せて……そう、彼女の姿が、一番視界に入る席。
椅子に腰かけ荷物を置いてからメニューを手に取り、ケーキ選びに悩んでいた。
コーヒーはいつも同じものを注文するけど、ケーキはその日の気分によって変えている。
「おすすめは何ですか?」って、彼女に聞いてそこから会話を広げたい自分もいるけど、仕事の邪魔にはなりたくない。
今日はミルクレープにしようと決めてメニューから顔を上げ、彼女の視界に映るように手を挙げればすぐに反応してくれた。それがいつも、ちょっと嬉しい。
口元に薄く笑みを広げたままの彼女が俺のテーブルに近づいて、注文を取ってもらうときはどきどきしてしまう。

「ホットコーヒーと、ミルクレープを」
「ホットコーヒーと、ミルクレープですね。少々お待ちください」

今日は良い天気ですね。とか、ここのコーヒーとケーキが好きなんですよ。とか、声を掛けたい言葉は浮かぶもののつまらない話題かもしれないと思って、ぐっと飲みこんでしまう。こうして彼女に声を掛けられないまま、カフェに通うようになってから約三か月が経ってしまった。
カフェのマスターである女性に注文を届けに行っている彼女の横顔を盗み見て、心を落ち着けながら文庫本と眼鏡ケースを取り出した。
この町に引っ越しをしてきて、たまたまカフェを見つけて、雰囲気も好みだったし落ち着いて読書ができるだろうと休みの日に訪れたのが運命の出会いだった。その頃の俺は、ちょっと――いや、かなり落ち込んでいた。
抱えていた原稿が上手くいかず、何か癒しが欲しくて、おいしいコーヒーにでも出会えたらいいなぁと軽い気持ちでカフェに入った。そして、店内で出迎えてくれた彼女のふわりとした柔らかな笑顔と「いらっしゃいませ」の声にすべてを持っていかれたんだ。
なんて優しい顔で笑うんだろうって感動して、そのまま、ぼーっと席について、コーヒーを注文した。彼女が運んできてくれたコーヒーも好みの味で、店の雰囲気も良く、読みかけの本をあっという間に読んでしまえるほどの居心地の良さがあった。
店を出るときも彼女がお会計をしてくれて、「ありがとうございました」と言ってくれた声も笑顔も、また胸に深く刺さって……あ、また絶対に来よう、と強く決意したんだ。
おいしいコーヒーと彼女の笑顔と声に癒された結果、原稿は調子よく進むし気分転換にもなるし、良いことばかりだった。
気付けば毎週水曜日が楽しみになっていて、彼女の笑顔を見るために、声を聞くためにカフェに通うようになった。彼女を目で追うようになって、カフェに来るすべての目的が「彼女に会うため」になって、ずるずると今に至っている。
掛けた眼鏡のブリッジを中指で持ち上げて、開いた文庫本に意識を向ける。目が悪いわけじゃないのに眼鏡を掛けているのは、彼女が俺の視線に気付かないようにするためだ。
本当は働いている姿と彼女の笑顔を見ていたいけど、じっと見つめていたら不審者になってしまうから。
いや待ってくれ、今でも充分不審者かもしれないと思ったら落ち込みそうになった。

「お待たせしました」

大好きな声が聞こえて、文庫本に向けていた視線を上げれば彼女と目が合った。この瞬間が、俺の休日の一番のピークだと思っている。きちんと目を合わせることができて、嬉しくて、緩んだ表情で彼女を見つめてしまう。

「ありがとう」
「いえ。ごゆっくりしてくださいね」

いつものように微笑みを返してくれた彼女がテーブルを離れていく。その背中の後ろで気付かれないように口元を右手で覆った。
ああ、今日も可愛かった。優しい笑顔だった。優しい声だった。ふわふわしている。甘い香りがした気がする。
作家のくせになんとも語彙力の無い感想ばかりが浮かんでしまう。気持ちを落ち着けるためにコーヒーに口をつければ、今日も安定のおいしさにホッとした。
読書をしながら、時折コーヒーとケーキを楽しんで、食べたり飲んだりするときに彼女の姿を目で追う。来店したお客さんや、お会計の対応をしている彼女を見てまた癒されること一時間後、コーヒーもケーキも食べ終えたので帰る支度を始めることにする。
ああ、今日も彼女に声を掛けられなかった。
話しかけるチャンスはあるのに、迷惑かもしれないとか、嫌がられたらどうしようとか後ろ向きな考えで踏み出せない。
もしかしたら、ずっとこのままなんてこともあるのか、と考えて――それは、絶対に嫌だと思った。
ほんの少しのきっかけがあればいい。もし、彼女が少しでも俺のことを気にしてくれていたら。この眼鏡拭きをここに置いたら。
彼女が手渡してくれたなら。手渡してくれなくても、来週の水曜日に「ここに眼鏡拭きが落ちてませんでしたか?」って話しかけるきっかけになる。
眼鏡ケースから取り出した眼鏡拭きを自分が座っていた椅子の上に置いて、伝票を持ってレジに向かう。気づいてくれた彼女がお会計の対応をしてくれて、お釣りとレシートを受け取ったあとは「ごちそうさまでした。おいしかったです」と、自分ができる限りの優しい声と表情で伝えた。

「ありがとうございました」

ふわりとはにかんで見送ってくれた彼女の笑顔を目に焼き付け、ドアを開けて外に出る。唇を引き結んでから自宅に向けて歩き出した。
よし、よし。多分、大丈夫。大丈夫だよな。
俺の眼鏡拭き。お前に俺のすべてを託したからな。
この一方通行の恋心をなんとか伝えるまでのきっかけになるようにと祈りを込めて。
来週の水曜日に必ず彼女に声をかけるという決意を胸に、ぐっと右手の拳を握る。
今日も彼女の笑顔と声と、おいしいコーヒーとケーキに癒された。明日からまた原稿がんばろう。
彼女とどんな会話をしようかと考えるだけで、背中に羽が生えたみたいに体が軽くなって、色んなアイデアが生まれてくる。
俺は行きつけのカフェの店員さんに恋をしている。
一杯の安らぎと癒しは、もはや俺にはなくてはならない日常の一つだ。
< 2 / 4 >

この作品をシェア

pagetop