両片想いの恋の味。
第三話 今週水曜日、午後三時に一歩踏み出すカフェ店員。
私には、毎週水曜日の午後三時に楽しみにしていることがある。
片想いしている相手が毎週水曜日の午後三時にこのカフェに来る。今日はその水曜日。楽しみにしている日のはずなのに、私はいまだかつてない緊張に襲われていた。
先週の水曜日に彼が椅子の上に忘れて行った眼鏡拭きを返す際に、世間話から話題を広げて、彼の名前を聞こうと気合を入れたことが原因だ。
彼がカフェに来てくれるであろう次の水曜日が来るまで、自宅に持って帰った彼の眼鏡拭きを前に正座して、寝る前に両手を合わせて「私にチャンスをください眼鏡拭きさま」と祈った七日間。
次の水曜日が待ち遠しくて、心の落ち着きがなく一週間を過ごしていたけど、いざ水曜日が来たら緊張でどうにかなってしまいそうだった。
仕事中も何度もエプロンのポケットに手のひらで触れて眼鏡拭きを確認したし、時計も頻繁に確認してしまった。
まだ十三時だ。から、やがてあと一時間だ。になって、三十分前、そしてとうとう十分前。期待と緊張を抱いていたとはいえ習慣というものは身に付いていて、彼がいつも座る席のテーブルを布巾で拭いていた。
カラリと乾いた音を立てるドアベルに肩が、ぴゃっと跳ねる。まさかと思い振り向けば、待ち望んでいた彼が入店したところだった。思わず時計を確認してしまったのは、いつも彼が来る時間より十分も早かったことだ。
待ってほしい。心の準備ができていない。がんばれ私の表情筋。いつも通り。いつも通り。
「いらっしゃいませ」
私と目を合わせてくれた彼は、爽やかにはにかんで、人差し指を立てて「一人です」と教えてくれる。
「おひとりさまですね。お好きな席へどうぞ」
ここまではいつも通りだ。大丈夫。問題は、いつ、どうやっていつも通りと違うことをするかだ。
彼がメニューを見ている間は声をかけない方がいいだろう。邪魔になってはいけない。
注文のために私を呼んでくれたとき……伝票に注文を書き込んだあとしよう。
横目で彼の様子を窺い、メニューから顔を上げて私に向け手を挙げたのを確認してすぐ注文を聞きにいく。
「ホットコーヒーと、フルーツタルトを」
「ホットコーヒーと、フルーツタルトですね。少々お待ちください」
伝票に注文を書き込んで、一呼吸おいて。ここだ。ここで、眼鏡拭きの話題を出すんだ。眼鏡拭きの話題を――出さなきゃいけないのに、彼の瞳と視線が交わった瞬間、喉元まで出かかった言葉をなぜか飲み込んでしまって、いつも通りの動きをしてしまった。つまり、彼に声をかけることができずにカウンターの向こうで待っていたマスターの元に逃げた。
いつもニマニマしながら伝票を受け取るマスターの表情を見る余裕すらない。私の脳内はパニックだ。
どうしよう。どうしよう。声をかけられなかった。緊張しすぎてダメだった。だって、目が合った途端ドキって心臓が跳ねちゃって一気に喉がカラカラになっちゃって、ダメだ。情けなくて泣いちゃいそうだ。
半泣きになりながらちらりと彼の様子を盗み見たけど、私が大好きな仕草で眼鏡をかける彼の周りに散っている、きらきらしたオーラが眩しくて胸が苦しくなった。
マスターに名前を呼ばれてハッとする。コーヒーとフルーツタルトの準備ができたのでお皿をおぼんにのせて大きく深呼吸した。
次こそ。このお皿を持って行ったときに声をかけるんだ。
「眼鏡拭きをお忘れじゃなかったですか?」って言うだけでしょ。そこから「いつも来てくださってありがとうございます」って会話を広げて、彼のお名前を聞くんだ。
何度も何度もシミュレーションしたでしょう。大丈夫。大丈夫。
いつものスマイルを浮かべて、ぐっとおなかに力をこめて気合を入れ、文庫本を読んでいる彼の元に歩み寄った。
「お待たせしました」
文庫本から視線を上げてくれた彼が目を合わせて微笑んでくれる。ここが、私のいつもの水曜日のピークである。
今日も格好良い。「ありがとう」って言ってくれた声が優しい。彼の微笑みが眩しい。
声を、声をかけるんだ。
「ぃ、え。ごゆっくりしてくださいね」
私のばかやろう。意気地なし。
ぺこりと頭を下げてから後ろを向いて、それでもやっぱりダメだと一瞬足を止めかけた時にタイミング悪く他のお客さんに呼ばれてしまった。明るく返事をして彼が座っている場所と反対側のテーブル席へ向かった私はきっと情けない顔をしている。
そこからずっと、彼のことを気にしつつも来店されるお客さんの対応をして、よし今がチャンスだと一歩踏み出してはやっぱり勇気が出なくてダメで。内心しょんぼりしながら仕事をしているうちにあっという間に彼が退店する時間が来てしまった。
伝票を持って席を立つ彼がお会計に向かったので対応するためにレジに入る。
ここで声をかけなくていつ声をかけるんだ。ここで声をかけないと後悔するのは私だ。お名前を聞くって決めたでしょう。眼鏡拭きを返さなきゃいけないでしょう。
お会計金額を伝え、お支払いを受け取り、お釣りとレシートをお渡しすれば「ごちそうさまでした。おいしかったです」といつも通り伝えてくれる。
ここで、声を、かけるんだ。
「あの」
「あの」
意をけして声をかけたら、彼も同じ言葉を同じタイミングで言い放っていた。彼もまさか私が声をかけようとすると思っていなかったようで、二人同時に目を見開いて、「あっ、あっ」って慌てて、同じタイミングで「どうぞ」と話を譲る。でも、私の口が止まらなくて、勢いのままに「あの!」と彼を見上げていた。
エプロンのポケットから丁寧な手つきで眼鏡拭きを取り出して、彼に差し出す。ああ、泣いちゃいそうだ。変な子だって思われちゃったかもしれない。
「これ、先週、お忘れじゃなかったですか?」
彼の瞳が眼鏡拭きに向いてから私の瞳に移る。ゆっくりまばたきをした彼は、深く息を吸い込んだあと、ふわりと安心したような微笑みを広げた。
「よかった。探してたんです。あなたが、持っていてくれて嬉しい、です」
彼の微笑みの甘い眩しさに溶けてしまいそうだった。もう、へにゃへにゃになって膝から崩れてしまいそうだ。
「あ、の。いつも……来てくださって、ありがとうございます。あの、あの」
エプロンを握り締めて、目を伏せて彼の視線から一度逃げる。
「あの」を繰り返してはっきりしない私を見てどう思っているんだろうと気になり、気合を入れて彼をまた見上げたら優しい顔で小首を傾げて「はい」と私の言葉の続きを待っていてくれた。その表情と仕草と声に、好きが溢れてなぜか泣きそうだ。
「お名前を、教えて、ください」
小さく息をのんだ彼は私から一瞬目をそらし、唇を引き結んだあと右手拳を口元に近づけて「ん」と咳払いする。そして再び私と目を合わせてくれた。
「俺の、名前は――結城ハルトです」
ゆっくりと、そしてはっきりとした口調で彼の唇から紡がれた名前を聞いた私は、嬉しさと幸せのあまり、今日一番の笑顔を浮かべてしまったと思う。
「結城ハルトさん。結城さんですね」
やった。やっと彼の名前を呼べるんだ。
頭の中で彼の名前を何度も繰り返してしまう。それくらい嬉しくて、名前をちゃんと聴けたことに安心したら肩の力が抜けた。
「っ、来週の水曜日、また来ます。そのときに、眼鏡拭きのお礼を」
「え、いえ。お礼なんてそんな」
「お礼というか、俺があなたと話をする口実がほしいんです。だからどうか、来週の水曜日に受け取ってください」
私とお話しする口実。っていうことは、結城さんも私とお話してみたいなって思ってくれていたってこと? 何、それ。嬉しい。照れくさいけどなんとか笑みを浮かべて大きく頷いた。
「じゃあ、楽しみにしてます」
「はい。じゃあ、また」
「また。ありがとうございました」
お互いぺこりと頭を下げて、優しい微笑みを口元に広げた彼がドアをくぐっていく。
ドアが完全に閉まったあと、私は両手で顔を覆って「ぐぅぅ、う」と唸りながらその場にしゃがみこんだ。
いつも以上にお話できた。お名前聞けた。格好よかった。眩しかった。優しかった。
もう涙が止まらない。なぜか感動に近い感情が溢れ出す。
結城さんの尊さに、えぐえぐと泣きながらマスターのところに行けば今日も三時間滞在していた治郎吉おじいさんが「よくやったぜ!」と褒めてくれた。マスターも私の頭をぽんぽんと撫でてくれる。グラスにお水を注いでくれたので甘えてちょっと喉を潤させてもらった。
「来週まで絶対に生きる」って力強く宣言したら、マスターも治郎吉おじいさんも「来週が楽しみだなぁ」って言っていた。
片想いしている相手が毎週水曜日の午後三時にこのカフェに来る。今日はその水曜日。楽しみにしている日のはずなのに、私はいまだかつてない緊張に襲われていた。
先週の水曜日に彼が椅子の上に忘れて行った眼鏡拭きを返す際に、世間話から話題を広げて、彼の名前を聞こうと気合を入れたことが原因だ。
彼がカフェに来てくれるであろう次の水曜日が来るまで、自宅に持って帰った彼の眼鏡拭きを前に正座して、寝る前に両手を合わせて「私にチャンスをください眼鏡拭きさま」と祈った七日間。
次の水曜日が待ち遠しくて、心の落ち着きがなく一週間を過ごしていたけど、いざ水曜日が来たら緊張でどうにかなってしまいそうだった。
仕事中も何度もエプロンのポケットに手のひらで触れて眼鏡拭きを確認したし、時計も頻繁に確認してしまった。
まだ十三時だ。から、やがてあと一時間だ。になって、三十分前、そしてとうとう十分前。期待と緊張を抱いていたとはいえ習慣というものは身に付いていて、彼がいつも座る席のテーブルを布巾で拭いていた。
カラリと乾いた音を立てるドアベルに肩が、ぴゃっと跳ねる。まさかと思い振り向けば、待ち望んでいた彼が入店したところだった。思わず時計を確認してしまったのは、いつも彼が来る時間より十分も早かったことだ。
待ってほしい。心の準備ができていない。がんばれ私の表情筋。いつも通り。いつも通り。
「いらっしゃいませ」
私と目を合わせてくれた彼は、爽やかにはにかんで、人差し指を立てて「一人です」と教えてくれる。
「おひとりさまですね。お好きな席へどうぞ」
ここまではいつも通りだ。大丈夫。問題は、いつ、どうやっていつも通りと違うことをするかだ。
彼がメニューを見ている間は声をかけない方がいいだろう。邪魔になってはいけない。
注文のために私を呼んでくれたとき……伝票に注文を書き込んだあとしよう。
横目で彼の様子を窺い、メニューから顔を上げて私に向け手を挙げたのを確認してすぐ注文を聞きにいく。
「ホットコーヒーと、フルーツタルトを」
「ホットコーヒーと、フルーツタルトですね。少々お待ちください」
伝票に注文を書き込んで、一呼吸おいて。ここだ。ここで、眼鏡拭きの話題を出すんだ。眼鏡拭きの話題を――出さなきゃいけないのに、彼の瞳と視線が交わった瞬間、喉元まで出かかった言葉をなぜか飲み込んでしまって、いつも通りの動きをしてしまった。つまり、彼に声をかけることができずにカウンターの向こうで待っていたマスターの元に逃げた。
いつもニマニマしながら伝票を受け取るマスターの表情を見る余裕すらない。私の脳内はパニックだ。
どうしよう。どうしよう。声をかけられなかった。緊張しすぎてダメだった。だって、目が合った途端ドキって心臓が跳ねちゃって一気に喉がカラカラになっちゃって、ダメだ。情けなくて泣いちゃいそうだ。
半泣きになりながらちらりと彼の様子を盗み見たけど、私が大好きな仕草で眼鏡をかける彼の周りに散っている、きらきらしたオーラが眩しくて胸が苦しくなった。
マスターに名前を呼ばれてハッとする。コーヒーとフルーツタルトの準備ができたのでお皿をおぼんにのせて大きく深呼吸した。
次こそ。このお皿を持って行ったときに声をかけるんだ。
「眼鏡拭きをお忘れじゃなかったですか?」って言うだけでしょ。そこから「いつも来てくださってありがとうございます」って会話を広げて、彼のお名前を聞くんだ。
何度も何度もシミュレーションしたでしょう。大丈夫。大丈夫。
いつものスマイルを浮かべて、ぐっとおなかに力をこめて気合を入れ、文庫本を読んでいる彼の元に歩み寄った。
「お待たせしました」
文庫本から視線を上げてくれた彼が目を合わせて微笑んでくれる。ここが、私のいつもの水曜日のピークである。
今日も格好良い。「ありがとう」って言ってくれた声が優しい。彼の微笑みが眩しい。
声を、声をかけるんだ。
「ぃ、え。ごゆっくりしてくださいね」
私のばかやろう。意気地なし。
ぺこりと頭を下げてから後ろを向いて、それでもやっぱりダメだと一瞬足を止めかけた時にタイミング悪く他のお客さんに呼ばれてしまった。明るく返事をして彼が座っている場所と反対側のテーブル席へ向かった私はきっと情けない顔をしている。
そこからずっと、彼のことを気にしつつも来店されるお客さんの対応をして、よし今がチャンスだと一歩踏み出してはやっぱり勇気が出なくてダメで。内心しょんぼりしながら仕事をしているうちにあっという間に彼が退店する時間が来てしまった。
伝票を持って席を立つ彼がお会計に向かったので対応するためにレジに入る。
ここで声をかけなくていつ声をかけるんだ。ここで声をかけないと後悔するのは私だ。お名前を聞くって決めたでしょう。眼鏡拭きを返さなきゃいけないでしょう。
お会計金額を伝え、お支払いを受け取り、お釣りとレシートをお渡しすれば「ごちそうさまでした。おいしかったです」といつも通り伝えてくれる。
ここで、声を、かけるんだ。
「あの」
「あの」
意をけして声をかけたら、彼も同じ言葉を同じタイミングで言い放っていた。彼もまさか私が声をかけようとすると思っていなかったようで、二人同時に目を見開いて、「あっ、あっ」って慌てて、同じタイミングで「どうぞ」と話を譲る。でも、私の口が止まらなくて、勢いのままに「あの!」と彼を見上げていた。
エプロンのポケットから丁寧な手つきで眼鏡拭きを取り出して、彼に差し出す。ああ、泣いちゃいそうだ。変な子だって思われちゃったかもしれない。
「これ、先週、お忘れじゃなかったですか?」
彼の瞳が眼鏡拭きに向いてから私の瞳に移る。ゆっくりまばたきをした彼は、深く息を吸い込んだあと、ふわりと安心したような微笑みを広げた。
「よかった。探してたんです。あなたが、持っていてくれて嬉しい、です」
彼の微笑みの甘い眩しさに溶けてしまいそうだった。もう、へにゃへにゃになって膝から崩れてしまいそうだ。
「あ、の。いつも……来てくださって、ありがとうございます。あの、あの」
エプロンを握り締めて、目を伏せて彼の視線から一度逃げる。
「あの」を繰り返してはっきりしない私を見てどう思っているんだろうと気になり、気合を入れて彼をまた見上げたら優しい顔で小首を傾げて「はい」と私の言葉の続きを待っていてくれた。その表情と仕草と声に、好きが溢れてなぜか泣きそうだ。
「お名前を、教えて、ください」
小さく息をのんだ彼は私から一瞬目をそらし、唇を引き結んだあと右手拳を口元に近づけて「ん」と咳払いする。そして再び私と目を合わせてくれた。
「俺の、名前は――結城ハルトです」
ゆっくりと、そしてはっきりとした口調で彼の唇から紡がれた名前を聞いた私は、嬉しさと幸せのあまり、今日一番の笑顔を浮かべてしまったと思う。
「結城ハルトさん。結城さんですね」
やった。やっと彼の名前を呼べるんだ。
頭の中で彼の名前を何度も繰り返してしまう。それくらい嬉しくて、名前をちゃんと聴けたことに安心したら肩の力が抜けた。
「っ、来週の水曜日、また来ます。そのときに、眼鏡拭きのお礼を」
「え、いえ。お礼なんてそんな」
「お礼というか、俺があなたと話をする口実がほしいんです。だからどうか、来週の水曜日に受け取ってください」
私とお話しする口実。っていうことは、結城さんも私とお話してみたいなって思ってくれていたってこと? 何、それ。嬉しい。照れくさいけどなんとか笑みを浮かべて大きく頷いた。
「じゃあ、楽しみにしてます」
「はい。じゃあ、また」
「また。ありがとうございました」
お互いぺこりと頭を下げて、優しい微笑みを口元に広げた彼がドアをくぐっていく。
ドアが完全に閉まったあと、私は両手で顔を覆って「ぐぅぅ、う」と唸りながらその場にしゃがみこんだ。
いつも以上にお話できた。お名前聞けた。格好よかった。眩しかった。優しかった。
もう涙が止まらない。なぜか感動に近い感情が溢れ出す。
結城さんの尊さに、えぐえぐと泣きながらマスターのところに行けば今日も三時間滞在していた治郎吉おじいさんが「よくやったぜ!」と褒めてくれた。マスターも私の頭をぽんぽんと撫でてくれる。グラスにお水を注いでくれたので甘えてちょっと喉を潤させてもらった。
「来週まで絶対に生きる」って力強く宣言したら、マスターも治郎吉おじいさんも「来週が楽しみだなぁ」って言っていた。