両片想いの恋の味。
第四話 今週水曜日、午後三時に覚悟を決める作家。
俺には、毎週水曜日の午後三時に楽しみにしていることがある。
片想いしている相手が働いているカフェに足を運ぶ日が水曜日だった。
彼女の笑顔と優しい声に癒される大事な休日。楽しみにしている日のはずなのに、そわそわと落ち着きなくいつも家を出る時間より早く外出していた。
先週の水曜日に、わざと椅子の上に眼鏡拭きを忘れて行った。彼女が眼鏡拭き見つけてくれて、声をかけてくれればいいなと思ったからだ。もし眼鏡拭きに気付かなくても、俺の方から「眼鏡拭きが落ちてませんでしたか?」と話し始めるきっかけになる。そこから会話を広げて、彼女の名前を聞く。彼女はなんていう名前なんだろう。
早く、会いたい。カフェに向かう足が早足になってしまって、いつもカフェにつく時間より十分も早く着いてしまった。
カラリと乾いた音を立てるドアベルに心臓が高鳴る。彼女が振り向いて俺の姿を視界に入れ、いつも通り「いらっしゃいませ」とはにかんでくれた。
ここで、眼鏡拭きの話題を出す。のは、さすがにおかしいだろう。席についてからにしよう。
俺は彼女に人差し指を立てて「一人です」と来店人数を伝えた。

「おひとりさまですね。お好きな席へどうぞ」

優しい声で好きな席に座るように勧めてくれた彼女の前を通り過ぎ、俺が好んで座るテーブル席に向かって、荷物を置いた。
メニューを見ている間に、もしかしたら向こうから声をかけてくれるかもしれないという淡い期待を抱きながら、メニューを手に取って今日のケーキを選ぶ。
いつもよりゆっくり時間をかけて悩んだんだけど、彼女から声をかけてくれそうな雰囲気はない。
よし、注文を聞いてくれたあと俺から声を掛けよう。そう意気込んで彼女向けて手を挙げると、すぐに気づいてくれてテーブルの傍まで来てくれた。ふわりと香った甘い匂いにくらくらしてしまう。これは、彼女の香りだろうか。

「ホットコーヒーと、フルーツタルトを」
「ホットコーヒーと、フルーツタルトですね。少々お待ちください」

ここで、俺から声をかけるんだ。眼鏡拭きの話題を。
声を発するために、ふ、と吸い込んだ息は彼女と目が合った瞬間、詰まって喉から出てこない。その一瞬、逃したタイミングのせいで彼女はいつも通りカウンターの向こうのマスターのところへ行ってしまった。
ああ、もう。何をしているんだ。今、明らかにチャンスだったのに。目が合ったら「あ。可愛いな」ってなってダメだった。
気持ちを落ち着けるために、とりあえずいつも通り文庫本を取り出して眼鏡を掛ける。この眼鏡ケースの中に僕の眼鏡拭きはない。今どこにあるんだろう。
それを確かめるために彼女に声を掛けなければいけないのに……眼鏡拭きをきっかけに会話を広げるって決めてきたのに、このままじゃあダメだ。
次こそは。彼女が俺にコーヒーとケーキを持ってきてくれたときに眼鏡拭きのことを問いかける。
「眼鏡拭きが落ちてませんでしたか?」から「ここのコーヒーとケーキが好きなんです」と話題を広げて、彼女の名前を聞くんだ。

「お待たせしました」

ふわりとした優しい声が降ってくる。文庫本から視線を上げて彼女を見たら自然と頬が緩んでしまった。彼女と目が合う瞬間。俺の水曜日のピークだ。
「ありがとう」を伝えて彼女を見上げていたんだけど、声を掛けなきゃいけないのに「可愛いなぁ」って見惚れてしまった。

「ぃ、え。ごゆっくりしてくださいね」

あ、しまった。待ってくれ。声をかけるタイミングを逃しかけたので呼び止めようとすると向こうのテーブルから彼女を呼んだお客さんがいた。
ああ。そう、か。彼女は仕事中だから、俺に声を掛けられたら迷惑になってしまうかもしれない。仕事の邪魔になってしまう。
でも諦めきれなくて文庫本を読みながら、コーヒーとケーキをいただきつつ彼女に話しかける隙は無いかと窺う。
俺の気のせいかもしれないけど、今日の彼女は少し元気がない気がする。どうしたんだろう。何かあったのかな。こういうとき親しい関係だったら声をかけて「何かあった?」って聞けるのにな。
そこからずっと、彼女のことを気にしつつもコーヒーとケーキを食べ終えてしまった。
鞄の中に文庫本と眼鏡ケースをしまい、伝票を手に立ち上がって気合を入れる。
最後のチャンスだ。会計が終わったら俺から声をかける。絶対に。
レジに向かえば、彼女がそれに気づいてくれて対応してくれた。
会計金額を聞いてお金を支払い、お釣りとレシートを受け取っていつも通り「ごちそうさまでした。おいしかったです」と伝える。
ここだ、ここで声をかけるんだ。

「あの」
「あの」

意をけして声をかけたら、彼女も同じ言葉を同じタイミングで言い放っていた。
彼女もまさか俺が声を掛けると思っていなかったみたいで、二人同時に目をぱちくりさせる。
「あっ、あっ」って慌てて、同じタイミングで「どうぞ」と話を譲り合い、彼女がそのまま「あの!」と俺を見上げてくれたんだけど、まっすぐな瞳に見惚れて一瞬反応が遅れてしまった。
彼女はエプロンのポケットから、そっと眼鏡拭きを取り出して、俺に差し出す。

「これ、先週、お忘れじゃなかったですか?」

君が持っていてくれたんだ。もしかして、彼女も俺に声を掛けようとしていてくれたのかななんて都合の良いように考えてしまう。
ダメだ。嬉しくてちょっと目の前が滲んでしまう。嬉しい。本当に嬉しい。

「よかった。探してたんです。君が、持っててくれて嬉しい、です」

いつも以上に彼女と会話をしていることに胸がどきどきしてしまう。自然と口元が緩んでしまって、彼女から目がそらせなくなる。

「あ、の。いつも……来てくださって、ありがとうございます。あの、あの」

エプロンを握り締めて、目を伏せた彼女が俺に何かを伝えようとしてくれている。彼女が伝えたい言葉はいつまでだって待てるので「はい」と相槌を打って言葉の続きを待った。

「お名前を、教えて、ください」

危なかった。喉から変な声が出そうになった。
まさか彼女の方から名前を聞いてくれるなんて思っていなかった。動揺を誤魔化すために彼女から一度目を逸らし、軽く咳払いをする。ちゃんとした声で名前を伝えないと。

「俺の、名前は――結城ハルトです」

僕の名前を聞いた彼女は、眉を下げ、へにゃりとした微笑みを浮かべた。もう、溶けちゃうんじゃないかってくらい可愛い笑顔で。

「結城ハルトさん。結城さんですね」

優しい声が弾んでいる。彼女の喜びが伝わってくる。俺の名前を聞けて喜んでいるのがありありと伝わって、もうダメだった。
可愛い。ダメだ。可愛い。彼女のあまりの可愛らしさに、ぐっと息を詰めた俺はなんとか言葉を絞り出した。

「っ、来週の水曜日、また来ます。そのときに、眼鏡拭きのお礼を」
「え、いえ、お礼なんてそんな」
「お礼というか、俺が君とお話する口実がほしいんです。だからどうか、来週の水曜日に受け取ってください」

来週にもお話ができる口実をと思ったんだけど、彼女はまた俺の心臓を撃ち抜いてくる。照れくさそうにはにかんで大きく頷いてくれた。

「じゃあ、楽しみにしてます」
「はい。じゃあ、また」
「また。ありがとうございました」

お互いぺこりと頭を下げたあと、緩んでしまう口元をそのまま笑みに変えてドアをくぐる。
カフェの前から歩き出し、右手の甲で唇を隠して、一瞬だけきつく目を閉じた。
ああ、彼女が今日も可愛かった。あの笑顔はずるいな。
胸の辺りがふわふわしているのにどきどきしている不思議な感覚だ。
来週が楽しみ過ぎて、早く水曜日にならないかなって考えてしまう。
そうだ。このまま家に帰るんじゃなくて、彼女に渡すお礼を探しにいこう。
何がいいかな。アクセサリー、お菓子、髪飾り、ぬいぐるみ、とか? いや、あまり思いを込め過ぎたものはダメだろうから、受け取りやすいものを。
彼女が喜んでくれるものを選びたいと思って色んな店を巡る休日の午後は、とても満ち足りていて幸せなものだった。

「あ、しまった」

お店を巡っているさなか、あることに気づいて目元を右手のひらで覆う。
自分の名前は名乗ったのに彼女の名前を聞けていない。彼女のあまりの可愛らしさと、俺自身の喜びと興奮でタイミングを逃してしまった。
激しい後悔が襲いかかると同時に強く決意する。来週は彼女の名前を聞いて、いつの日か、連絡先を聞くんだ。
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